2017年4月1日(土)、タクシーをお願いし、鹿児島市内にある西郷隆盛関係の史跡を巡ることにしました。
西郷隆盛の生誕地については、こちらをご覧ください。
西郷隆盛蘇生の家
若き西郷隆盛は、清水寺の勤皇僧・月照とともに一橋慶喜擁立に尽力していました。
島津斉彬の死後、安政の大獄で幕府に追われる身となった月照と薩摩に向かいますが匿いきれず、悲観した2人は、錦江湾に浮かぶ船から投身自殺。
月照は水死しましたが、この家で西郷は蘇生します。
しかし彼は自分のことを「土中の死骨」と呼び、一生恥としました。
この家は、付近の坂下長右衛門宅。よく残っていたなと思います。
武村の家
明治になって西郷隆盛が移り住んだ家が、城下から少し離れた武(たけ)村の家です。
690坪の屋敷には、隆盛夫妻、寅太郎ら夫妻の子供3人、奄美大島から引き取られた菊次郎と菊子の他、戊辰戦争で戦死した弟の吉二郎の後妻・園、吉二郎と先妻との間の2人の子、従道の妻清子(のちに東京へ)、末弟の小兵衛、食客の川口雪蓬と数人の使用人が同居していたそうです。
当時の様子はこんな感じ。ここには13頭ほどの犬がおり、西郷はよく犬を連れて、狩猟に出かけたそうです。
ここなら13頭の犬がいくら吠えても、近所迷惑にはなりませんね。
市木(旧姓西郷)琴さんも、隆盛が家を空けている西郷家の世話をするため、よく通っていました。
大河ドラマでは描かれませんでしたが、西郷は戊辰戦争の時、庄内藩に寛大な処分をしています。
その処置に感動した藩主・酒井忠篤(ただずみ)や藩士・菅実秀(すげさねひで)たちは、後に「砲術修行」という名目で鹿児島を訪れて西郷の教えを受け、彼の言葉を『南洲翁遺訓』としてまとめました。
ちなみに「南洲(なんしゅう)」というのは「南の島(沖永良部?)」という意味の、西郷隆盛の号(称号 ペンネームのようなもの)です。
上の写真は、その時の様子を表現する「徳の交わり」という像です。
私学校跡
明治六年の政変で政府を辞職した西郷を慕って、薩摩系の官僚や軍人たちも続々と帰郷したため、鹿児島城下は無職の血気盛んな壮年者で溢れ、若者もそれに大いに影響されていきます。
彼らを指導し統御しなければ方向を誤るという考えから、有志者が隆盛にはかり、県令・大山綱良(つなよし)の協力を得て(県の租税を使用)、旧薩摩藩居城である鶴丸城跡の厩(うまや)に、砲隊、銃隊、賞典学校からなる、私学校が設立されました。
私学校では主に漢文の素読と軍事教練が行われ、設立の真の目的は不平士族の暴発を防ぐ事にあったと言われます。
しかし私学校生徒らは、鹿児島士族の動きを警戒した政府が、鹿児島にある火薬庫から火薬を運搬することに、強く反発。
鹿児島で自分たちが作った武器や火薬は、国家のものではなく、鹿児島のものだというのです。
私学校生が武器や弾薬を奪ったことが、西南戦争のきっかけとなりました。
西南戦争終盤では激戦地となり、石塀には銃弾の跡が多数残されています。
西郷洞窟
西郷隆盛は、明治10(1877)年9月19日から同24日未明に至る6日間、この洞窟で起居しました。
かなり狭い洞窟に思えますが、中は広いのかな? 体格の大きな西郷隆盛でも、窮屈ではないのかな?
現在の洞窟の規模は、奥行きが4m、間口が3m、入口の高さは2.5mだそうです。
上の写真は城山の薩摩軍陣地跡。
大河ドラマ最終回のセットは、この写真を参考にしていたのかもしれません。そっくりです。
西郷隆盛終焉の地碑
1877(明治10)年9月24日午前4時、政府軍の城山総攻撃は開始され、西郷らは洞窟を出て戦います。
午前7時過ぎ、腰と太腿に2発の銃弾を受けた隆盛は、「もうここらでよか」と別府晋介に介錯させて自決しました(享年49歳)。大河ドラマのラストシーンはどうなんだろう???
ここがその場所だそうです。
隆盛の死を見届けた桐野利秋らも全員玉砕し、ここに西南戦争は終結しました。
ちなみに、鹿児島市中央公民館(旧鹿児島市公会堂)の前には、「西郷南洲翁終焉百年之碑」があります。
南洲墓地
ここには749基の墓石があり、明治10年(1877)西南の役に敗れた薩軍2023人の将士が眠っています。
西南戦争後、政府軍は県令岩村通俊の願いを聞き、西郷隆盛以下40人を浄光明寺の境内に仮埋葬することを許しました。
1879(明治12)年、有志の者が鹿児島市内に仮葬されていた220余人の遺骨をまとめ、知事の許可を得て、西郷以下の仮埋葬遺体と共に現在の位置に整然と改葬しました。下が西郷の墓です。
後には薩摩・大隅・日向・豊後などの各地で戦死した遺骨も集められ、この墓地に埋葬されました。
西郷隆盛を中心に桐野利秋、篠原国幹、村田新八、辺見十郎太、別府晋介、桂久武の勇将をはじめ、鹿児島県令(初代県知事)大山綱良、わずか14才であった最年少の伊地知末吉、池田孝太郎、児玉5人兄弟や遠く西郷を慕って参加した山形県庄内の伴兼之・榊原政治の2名、福岡、大分、山梨の各県出身者の名も見られました。
西郷隆盛を祀る南洲神社が、墓地に隣接しています。
勝海舟の歌碑もありました。勝海舟は、本当に西郷隆盛が好きだったようです。
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