つかの間の平和 菊草(菊子)も鹿児島へ
1876(明治9)年、廃刀令と金禄公債証書条例(士族への秩禄=政府からの給与打ち切り)により、各地で士族が反乱を起こしました。
政府にすれば、人件費高騰(お雇い外国人への給与もある)に悩み、四民平等で農民や町人も徴兵の義務があるなら、士族だけ特別扱いして、刀や給与を与えるわけにはいかないのです。
この辺りの政府の事情や、新しい生き方を模索する士族たちの姿も、もっと紹介してほしかった。
一方西郷隆盛はこの動きには同調せず、相変わらず山々を歩き、狩猟や温泉巡りをしていました。
愛加那の産んだ菊草(菊子 14歳)を鹿児島に引き取り、花嫁修業をさせたのも、この時期でした。
菊次郎にすれば久々の妹との対面。一方愛加那は、子供たちと別れ、島で一人で暮らすことになりました。
やがて、菊子と従弟の大山誠之助との婚約が成立。
糸子は言葉遣いや生活習慣を教えるなど、菊子の花嫁修業を助けましたが、2人の結婚生活はうまくいきませんでした。
大久保利通の苦悩 薩摩の独立保守化
一方大久保利通は、薩摩の状況に困り切っていました。
廃藩置県後、全ての県にはその県と縁のない県令(今の県知事)や府知事が、中央政府の任命によって派遣されることとなりました。
例えば初代の兵庫県令は、長州の伊藤博文。
京都府知事の場合は公家の長谷信篤(ながたにのぶあつ)ですが、実質的に権力を握ったのは、『八重の桜』でも描かれていましたが、現在の副知事にあたる権大参事(ごんのだいさんじ)に就任した、長州の槇村正直(まきむらまさなお)でした。
ところが薩摩(鹿児島県)の場合は、島津久光の威光が強く、縁もゆかりもない人物を派遣するわけにもいきません。
初代鹿児島県令には、特例として薩摩藩士の大山綱良(つなよし 格之助)が任命されました。
島津久光は依然として政府に反発し、帰郷した西郷たちも政府に批判的。
大山は私学校の設立を県として援助し(租税を利用)、政府に租税を納めなくなりました。
その一方で私学校党を県官吏に取り立てて、鹿児島県はあたかも独立国家の様相を呈したのです。
政府の近代化政策も行われず、むしろ逆行傾向。磯田道史さんが時代考証されているのだから、もう少しこの状況をドラマで表現してくれてもいいのになと思いました。
長州の木戸孝允などは、この状況を黙認している大久保利通を、かなり批判しています。
大久保さんにしてみれば、身内の、しかも旧主君と先輩(かつ幼馴染の同志)の暴走に、本当に胃が痛くなる思いだったことでしょう。
私学校生の暴発
相次ぐ士族の反乱は鎮圧されましたが、次に反乱を起こすのは鹿児島士族では?と政府は心配します。
特に木戸孝允は、鹿児島に砲兵工廠(ほうへいこうしょう 兵器・弾薬工場)と火薬庫があることで、それらを全て、大阪へ移転しようとしました。
また薩摩藩出身の大警視・川路利良(としなが)は、24名の鹿児島県出身の巡査(多くは郷士出身)を、情報収集・私学校の瓦解工作などの目的で帰郷させます。
これに対し私学校側は、火薬は島津斉彬時代から旧藩士が購入・製造したものだから、鹿児島士族が使用するものであるという意識を強く持っていました。
もう完全に、鹿児島ファースト。
多数の巡査が一斉に帰郷したことも、私学校生にはどう考えても不審で、その目的を知る必要がありました。
1877(明治10)年1月28日、政府は鹿児島士族の反乱は近いとして熊本鎮台に警戒命令を出し、翌日の夜中に通告なく鹿児島の草牟田(そうむた)火薬庫から弾薬などを搬出します。
これに触発された私学校生が火薬庫等を襲撃し、残っていた武器弾薬を奪い取ってしまいました。
この時西郷は、大隅半島の小根占(こねじめ 南大隅町)で狩猟をしていましたが、弟の小兵衛がこの事件を知らせると「ちょっしもた!」と言ったそうです。
電信文の誤読? 「ボウズヲシサツセヨ」
政府の密偵として派遣された警官たちは、警戒していた私学校生らに捕縛・拷問され、彼らの持っていた電信文が動かぬ証拠となりました。
「ボウズヲシサツセヨ」
ボウズとは坊主頭の西郷隆盛。そしてシサツとは刺殺に違いない!と、私学校生らはいきりたち、西郷も、大久保や木戸たちは自分を暗殺しようとしたのかと、政府に裏切られた気持ちになっていたのでしょう。
西郷にすれば、政府のために私学校生の暴発をここまで防いでいたのにと、やるせない気持ちだったのかもしれません。
西南戦争後、警官たちは「シサツ」とは「刺殺」ではなく「視察」のことだったと証言しています。
もし警官の証言が真実なら(これも証拠がありませんが)、何という不幸な誤解!
西郷の挙兵
鹿児島では2月6日、私学校で大評議が開かれ、政府問罪のために大軍を率いて上京することが決定。
12日には陸軍大将西郷隆盛、陸軍少将桐野利秋、陸軍少将篠原国幹の連名で、正式文書で県令に上京を届け出ています。
戦いが目的ではなく政府への尋問のための上京ですが、兵を率いて会議に臨むというのは幕末薩摩藩の常套手段で、大政奉還や廃藩置県などと同様の、大改革を行う計画であったのかも知れません。
翌2月13日(旧暦元旦)に家族と祝いの膳を囲んだ西郷は、妻の糸子に「私学校の連中に命を預けた」と、自分の命を投げ出す覚悟を語ります。
当時は全国に不平士族が充満しており、西郷が挙兵すれば雪崩を打って全国各地で不平士族の反乱が勃発し、徴兵された農民中心の政府軍がそれら全てを鎮圧することはできないだろうと考えられていました。
私学校生たちも、当時最強と謳われた鹿児島士族が敗北するはずはないと信じ、14日、隆盛による正規大隊の閲兵式が行われ、15日に一番大隊が鹿児島を出発(西南戦争開始)。17日に西郷も鹿児島を出発しました。
トップ会談実現せず
鹿児島暴発を知った大久保は、「朝廷不幸の幸と、ひそかに心中には笑いを生じ候」と、政府を悩ます鹿児島士族の反乱をこれで一掃できると、余裕の感想を述べています。
大久保は、西郷は決して私学校党に同調せず、「無名の軽挙」はしないだろうと、伊藤博文への7日付書簡では書いていました。
しかし西郷が参加していることを知ると、西郷と会談するため鹿児島へ派遣されるよう、強く希望したのです。
彼の願いは、大久保が殺害されることを恐れた伊藤博文らに朝議で反対されたため、結局叶いませんでした。
もし親友だった彼らが、第三者を交えることなく、トップ会談が実現していたら、西南戦争の暴発はある程度抑えられたのでしょうか。
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