2018年2月25日(日)、熊本県玉名市から熊本市に移動する途中、西南戦争ゆかりの場所がたくさんあると聞き、タクシーで巡ることにしました。
ちなみに玉名市を訪れたのは、金栗四三のことを調べるためで、和水町も訪れました。
タクシーで登る雨の田原坂
田原坂の入り口には、立派な大看板がありました。
さすが有名古戦場。でもちょっと、看板の絵が古くなっています。メンテナンス大丈夫かな?
田原坂は熊本市と熊本県玉名市を結ぶ幅4m、長さ1.5km、標高差60mのゆるやかな坂道です。
進んでいくと、まず一の坂の標識。
さらに進むと、竹林の中の道に出ました。昔からこんな光景だったのでしょうか。
兵士が潜みやすそうです。歩いて登ると、雨だとちょっと怖いかも。幸いなことに、地縛霊は出ませんでした。
この後、二の坂や三の坂もありました。
谷村計介戦死之碑
二の坂を過ぎると、古い石碑がありました。谷村計介戦死之碑です。
谷村計介は、佐賀の乱でも活躍し、窮地に陥った部隊を救った宮崎県出身の陸軍伍長です。
薩摩軍に包囲された熊本鎮台司令官・谷干城(たにたてき)から、高瀬の第一旅団本部へ密使として派遣され、見事その任を果たし援軍の確保に成功。官軍の勝利に貢献しました。
しかし、その僅か2日後の3月4日、田原坂の戦いで戦死してしまいます(享年23歳)。
田原坂で戦死した人は、他にもたくさんいるはずなのに、なぜ彼だけが?と気になって、調べてみました。
それによると、谷干城は西南戦争後、谷村計介の紀功碑を建立することを発案し、1883(明治16)年、靖国神社境内に紀功碑が建立されます。
これを機に谷村の功績を再評価する声が高まり、忠君愛国として第一期国定教科書に載り、小学唱歌としても作詞作曲されて、広く国民に親しまれたそうです。
教科書にも載った偉人というわけで、こんなに立派な石碑が作られたのですね。
田原坂公園
田原坂は、熊本市へ通じる唯一の大砲が通れる道。
そのため、薩摩軍に包囲された熊本鎮台救出に向かう政府軍と、それを阻止する薩摩軍との間で、1877(明治10)年3月4日から17昼夜に渡り、白兵戦が繰り広げられました。
死傷者4,000人余りを出した古戦場は、現在公園化されています。
目についたのが、この銅像。
民謡『田原坂』で歌われた「馬上豊かな美少年」の像ですね。
この案内板は、古すぎて修理が必要。今年大河ドラマが放映されましたが、まだこのままかな?
公園内に残る石碑 圧倒された戦死者の数
公園内には、美少年の像だけではなく、数多くの石碑が建立されていました。
これは田原坂崇烈碑。
当時の社会情勢や戦いの推移、田原坂の激戦の様子と勝利の意義が、官軍の立場から述べられています。
上の写真は、戦国時代、肥後と薩摩との戦いで戦死した兵士を葬った塚に、西南戦争の薩摩軍死者約20名を、地元住民が合葬したという薩摩塚(古塚)。
しかし一番圧倒されたのは、西南役戦没者慰霊之碑です。
田原坂だけでなく、西南戦争全体の戦死者名を刻んだものですが、これだけ多くの人が戦死したなんて!
もちろん西郷隆盛もいます。
磯田道史さんは、著書『素顔の西郷隆盛』の中で、西郷が西南戦争で自決もせず、最後まで生き延びたからあれだけ多くの死傷者が出たと書かれていました。
西郷ファンには申し訳ないけれど、ある意味正しいかもしれません。
私の地元・兵庫県出身の官軍兵士だけでも、224名が戦死しています。
福島県出身者を調べてみると、『八重の桜』にも登場した元会津藩家老・佐川官兵衛の名前もありました。
政府軍戦死者数6,400人、薩摩軍戦死者数6,800人という犠牲をだした西南戦争ですが、他にも戦争で苦しめられた人は、もっとたくさんいたはずです。
つくづく戦争は嫌だと思いました。
弾痕の家
田原坂の戦いの激戦を伝える象徴として、よく知られているのがこの家。
土蔵に銃弾の跡が、見るも無残な姿で残っています。復元されたもののようですが、悲惨さはよく伝わります。
この家は当時、田原坂の頂上にあった 松下彦次郎家の土蔵。
政府軍・薩摩軍とも激しい銃撃戦を展開したことが、よくわかります。
先ほども玉東町の正念寺で、木製の山門に残った弾痕を見たのですが、これは白壁に残っていて、色彩のコントラストがはっきりしているため、とても生々しくて、怖い気持ちになりました。
この後は、田原坂西南戦争資料館を訪ねます。お楽しみに。
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