2019年7月8日(月)、ピーチで早朝、関空から福岡へ移動しました。
福岡県の水郷・柳川を満喫した後、次の目的地である佐賀県の吉野ケ里遺跡を目指します。
吉野ケ里までは、柳川から久留米まで西鉄、そこからバスで向かいました。私にとっては、初の佐賀県訪問になります。
グーグルマップはなぜか、公園より1つ手前のバス停で降りるように指示をしてきたので、水田を見ながら公園まで歩きました。
この水田、弥生時代からあったのかな?
マンホールのデザインも、吉野ケ里遺跡らしくていいですね。
広大な吉野ケ里遺跡公園
吉野ケ里遺跡は、正式には「吉野ケ里遺跡公園」という名前の広大な公園になっていました。
とても立派な入口(正門)や歴史公園センター(東口)にびっくり! 入場料は、大人1人460円でした。
でもこの日は平日だったので、せっかくの広大な施設もちょっと人が少なめ。それでも園内各所で、弥生時代の衣装を着けたスタッフが立っていて、案内したりしてくれました。
公園は73.7ha。東京ディズニーランドの約1.5倍もあるのです。北口や西口(イベント時のみ)もありますが、公共交通機関を利用するなら、東口がいいでしょう。
遠くには、巨大な建築物も見えますね。遺跡ムード満点です。
立派な環濠集落
田出川にかかる立派な橋(天の浮橋)を渡れば、もう環濠集落入り口です。
環濠集落と言えば、集落の周囲に濠がめぐらされているだけかと思っていましたが、更に防備体制がしっかりしていたのにびっくり!
集落の入り口の門にも驚きました。門の上に、鳥の像が置かれています。
確かに濠がめぐらされています。
逆茂木(さかもぎ)が怖い! 古代のバリケードです。
見張り台もあり、農耕が始まると、ムラ同士の争いも始まったことよくがわかりました。
ムラに侵入しようとする猪除けにもなったかな?
展示室で出土品を見学
環濠集落を見学する前に、たくさん歩いて疲れたので、展示室で涼みながら、出土品を見学することに決めました。ガイダンスビデオも上映されていて、遺跡の成り立ちなどがよくわかりました。
出土品の中には、面白いものもありました。
弥生人は、意外におしゃれ。
アクセサリーを多用しています。
貴重な「貝紫」も使われていたようです。遺跡で発見された布から、貝の色素が発見されたのだとか。中国への貢物としても、使用されたかもしれませんね。
古代人のファッションです。
弥生人と古墳時代人の等身大顔はめパネルもありましたが、身長は、当時の身長を再現したようです。弥生時代の女性は、身長150㎝、男性は163㎝とありました。
『三国志』に登場する2m近い武人(例えば関羽雲長さんは身長約216㎝、諸葛亮孔明さんは約193㎝。劉備玄徳さんは約173㎝)と比べれば、弥生人男性はやや小柄で、中国人から「倭人」(腰が曲がっていて背が低い人)と言われていたことがよくわかりました。
ちなみに、「小男」とされる曹操孟徳さんは約161㎝らしいです。弥生人男性より低かった?
弥生時代の日本人は、山や川・海の動物を色々食べていて、動物性たんぱく質には事欠かなかったと思われるのに、この差はなぜ?
ちなみに、邪馬台国の卑弥呼が魏に使者を遣わしたのは、諸葛亮孔明が五丈原で亡くなった5年後だったのでした。
食糧獲得の工夫
有明海に近いこともあって、彼らはたくさんの貝類を食べていたそうです。
牡蠣もたくさん食べていました。焼いたり煮たりしたのかな? 食中毒、大丈夫だったかな?
たくさんの石鏃(せきぞく=石のやじり)も出土していました。弓矢が使われていたことがわかります。
猪も、よく食べていたのかな。
もちろん、稲も育てていました。
石包丁や石鎌など、農耕具もありました。
土器も、食料の煮炊きや保存、盛り付けなどに使われていました。
戦いと葬送
展示室で一番印象的だったのが、この人骨。
よく日本史の教科書などで紹介されている、首のない人骨です。戦死したと思われます。
腹部に矢を10本射こまれた人骨もありました。
左側の石片が、その10個の鏃(やじり)。戦いのすさまじさがわかります。
大きな土器は、甕。甕棺としても使われました。
展示室の出土品は予想以上に充実していて、ここで弥生時代の人々の暮らしについて学んでから、遺跡の集落跡を見ると、より一層理解が深まるのではないかと思いました。
皆さんも、吉野ケ里遺跡公園の環濠集落跡を見学する前に、ぜひ一度、展示館に立ち寄られてはいかがでしょうか。
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