坂本の日吉大社はなんと読む? 懐かしの『産霊山秘録』と本能寺の変
2011年6月、比叡山延暦寺の東塔エリアで、根本中堂と文殊楼を参拝した私達が次に訪れたのは
坂本の日吉(ひよし)大社です。
全国に約3,800社もあるという日吉(ひよし或いはひえ)・日枝(ひえ)・山王(さんのう)神社・山王権現(さんのうごんげん)の総本社。
比叡山の地主神(じぬしのかみ=土地ごとの守護神)として延暦寺の守護神となり、794年に平安京が建設されると、都の鬼門に当たるところから、鬼門除け・災難除けの社として国から崇敬されるようになりました。
「日吉」には2つの読み方があるのですが、昔は日吉大社も「ひえ大社」と呼ばれていたのです。
日吉(ひえ)=ひえ(日枝)の山=比叡山。
とここまで書いていたら、昔々読んで衝撃を受けた、半村良さんの『産霊山秘録』が突然蘇ってきました。
この作品についてご存じない方は、編集者の松岡正剛さんが『松岡正剛の千夜千冊 第989夜』で紹介されていますので、そちらもご覧ください。結構ファンが多いのかな?
「本能寺の変」や、明智光秀と天海僧正の関係についても描かれています。SFだけど、意外と納得できる説。
半村良さんの作品では、『妖星伝』とこの作品が大好き。いずれも壮大なテーマの歴史SFです。
1973年刊行というかなり古い本ですが、その輝きや魅力は色あせていないと思います。
NHK大河ドラマ『麒麟がくる』で「本能寺の変」が迫ってくると、また読みたくなってきました。
さて、日吉大社は第二次大戦後、「ひよし大社」が正式の読み方になったそうです。
なぜ読み方を変えたのか、公式HPの「よくいただくご質問」によると、より親しみのある「ひよし」にしたのだとか。
「ひよし」の方が「日吉」の場合、読みやすい(自然な読み方)ということでしょうか。
日吉大社も信長に焼き討ち! 再興したのは「日吉丸」こと豊臣秀吉
坂本は、比叡山の登り口で延暦寺の門前町。大津市の北部に位置します。
比叡山の登り口ということで、信長軍の攻撃もこの坂本から始まりました。
そして根本中堂を目指す信長軍によって、日吉大社の建物も全て焼かれて灰燼に帰したのです。
その日吉大社を再興したのが、幼名「日吉丸」こと豊臣秀吉。
彼のあだ名は「猿」ですが、日吉大社の魔除けの象徴が神猿(まさる)、つまり猿が神の使い。
このような縁で、秀吉は日吉大社を特別な神社と考えていました。
特徴ある「山王鳥居」から西本宮楼門へ
まず最初に驚いたのが、神社なのに拝観料(入苑協賛金)が必要だったこと(現在大人300円)。神社って普通無料なのですが、有料でした。
ちなみに、有料の神社は他にもあります。昨年訪れた上高地(長野県)の穂高神社奥宮もそうでした。
この、変わった形の鳥居にも驚きました。鳥居に屋根がついている!
山王鳥居という独特の形式で、合掌鳥居とも呼ばれています。
日吉大社には、東と西それぞれに本宮があります。西本宮の楼門の軒下四隅には、神猿がいるそうです。知らなかったので見逃した!。
国家プロジェクトだった?西本宮の創建
西本宮の祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと=大国主命の別称)。
天智天皇が大津に都を移した際、大津京を鎮護するため、大和の大神(おおみわ)神社に祀られていた神をここに迎えるために建設されたのが、西本宮でした。
天智天皇による大津遷都については、住み慣れた飛鳥の地を離れがたい気持ちが「三輪山を しかも隠すか
雲だにも 情(こころ)あらなむ 隠さふべしや」という額田王(ぬかたのおおきみ)の歌にも込められていますね。
「三輪山とは別れるけれど、三輪山の神は大津京に近いひえの山に来てくれたよ」と天智天皇は、貴族たちの不満を和らげようとしたのでしょうか。
国家ぐるみの政策だったためか、後から建設された西本宮の方が、東本宮よりも上位に位置づけられていたそうです。
西本宮の拝殿と、その奥にかすかに見える本殿。本殿は、秀吉によって再建されたのだそう。
『麒麟がくる』で佐々木蔵之介さん演じる秀吉は、今までの秀吉のイメージと違って、どこか秘密警察長官のようなところもあり、彼からもなかなか目が離せません。
秀吉にとって、本能寺の変は運命を大きく変えた(喜ぶべき?)事件。
もし秀吉が本能寺の変の黒幕でないのなら、彼の強運を神のご加護と考え、共通点の多い日吉大社を特に大切にしたのもよくわかる気がしました。
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