頑張る婿養子 渋沢栄一の父・市郎右衛門
NHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公・渋沢栄一が生まれた家は、「旧渋沢邸 中の家」として、埼玉県深谷市の血洗島に今も残っています。
栄一の生家は渋沢家本家筋で、「中の家(なかんち)」と呼ばれていました。
しかしやがて家は傾いてしまい、おまけに男子の跡継ぎにも恵まれなかったそうです。
そのため、栄一の父となる市郎右衛門が「中ん家」に婿養子として入り、一生懸命働いて、家をもり立てました。
所有していた土地は畑のみなので(米作に向かない土地だった)麦や野菜を栽培し、さらに養蚕や藍玉の製造販売も行いました。
特に藍玉の製造販売には、力を入れていたそうです。
昔の婿養子というのは、能力のある人が見込まれることが多いのですが、市郎右衛門も優れた農民であり、職人であり、商人でもありました。
よく考えると、すごい人ですね。
今なら「V字回復を成し遂げた凄腕経営者!」として、本を出したり講演活動に引っ張りだこだったかもしれません。
ただ栄一に言わせると、非常に真面目だけれど四角四面なのが欠点みたい。
自分にも厳しく、他人にも厳しい。
他人を許すことが嫌いな(甘くないという意味で)ストイックな経営者だったのです。
文化人でもあった市郎右衛門
市郎右衛門は経営センスが優れているだけではなく学問もあり、漢文で書かれた『論語』や『四書五経』位は十分に読めました。
漢詩を作ったり俳諧をたしなんだりするなど、文化人としての一面もありました。
栄一の最大の趣味が漢詩作り(ドラマタイトル『青天を衝け』は、栄一が19歳の時に作った漢詩の一部から取られました)なのは、父親の影響でしょう。
これは何も市郎右衛門だけの話ではなく、江戸時代の農民たち(もちろん町人たちも)の文化的な活動は、かなり活発だったのです。
同じ多摩出身の豪農の子・土方歳三さんも俳諧が趣味で、「豊玉」という名で発句集まで作っていました。
ところで『青天を衝け』にも土方さんが登場するとか。
史実では、栄一が幕臣になってやる気を失ってしまったときに、京都で出会うようですが、もっと早くから登場するのかな?楽しみです。
在村文化を育んだ豪農たち
麒麟を連れてきた?徳川家康とその子孫の治世は太平の世となり、人口が増加。
江戸時代前期には新田開発が盛んでしたが、やがて無理な新田開発が森林破壊による洪水など環境問題を引き起こし、単位面積あたりの収穫量を増やす方向に進みます。
そのため「農書」と呼ばれる農業技術を紹介した書物が、多数刊行されました。
これらの書物を読めば、高く売れる商品作物の栽培方法や、進んだ肥料や農具についても知ることができるのです。
このため農書を読むための学力や経営感覚(もちろん算術の知識も)を育てる教育が、豪農と呼ばれる上層農民を中心に求められました。
進んだ知識を身につければますます豊かになり、時間と資金に余裕ができた彼らは、やがて学問に打ち込んだり出版活動を行ったり、趣味の道を究めるなど、各地で「在村文化」と呼ばれる多彩な活動を行いました。
また、多摩では治安が悪いため家族や財産を守る必要があり、剣術も盛んに学ばれます。
幕末に活躍した新選組を支えたのも、多摩の豪農たちでした。
明治になると、多摩では自由民権活動が盛んになりますが、その中心になったのも豪農たちでした。
本を読み、視野を広げ、生活を向上させつつ社会や人間について考える営みを、彼ら豪農たちは行っていたのでした。
いつの時代になっても、この姿勢は大切にしたいですね。
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