渋沢栄一の師は、従兄弟の尾高新五郎(惇忠)
前回、NHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公・渋沢栄一の親戚について紹介しました。
渋沢栄一は大勢の従兄弟たちに支えられることになりますが、その中でも一番影響を受けたのが、父の姉(やへ)の長男・尾高新五郎です。
市郎右衛門は、6歳から栄一に読み書きを教え、その1年後からさらに深く学問を学ばせるため、隣村の新五郎が開いていた塾に栄一を通わせたのです。
栄一の家から尾高新五郎の家までは、徒歩で約20分。これなら毎朝、楽に通える距離ですね。
彼はここで毎朝3~4時間、書を読むことを教わりました。
学びにおける高いハードル いつの時代でも教科書は難しい!
さて、本を読むためにはどうしても、文字を覚えたり語彙力を鍛えるなど、何かしら努力することが必要です。
最近では新井紀子さんの『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』がベストセラーになり、読解力の問題が注目されていますね。
しかし実は江戸時代にも「教科書が読めない子供たち」問題はあったのです。
江戸時代の「教科書」は漢文(現代の感覚でいえば半分外国語)で書かれた本が多く、一度壁にぶつかると、なかなか先には進めません。そうなると、途中で挫折してしまいます。
また苦労して読めた漢文(『論語』『四書五経』など)は、人の守るべき道を説いたものがほとんど。
当時の教育の根幹であった儒学の聖典ですが、現在では高校生が古典や倫理で学習する内容で、小中学生くらいの年頃には、(全員が)理解できて面白く感じるとは思えません。
「読む技術を習得するのが難しい」のに加え「内容を理解するのが難しい」。
学問ができないと家の浮沈に関わる(給与削減などペナルティーある藩も!)武士の子供たちなどは必死になって学ぶでしょうが、学問ができなくてもそれなりに生活できる家の子供たちは、本を読むのがつまらないと感じると、最低限の読み書きしか学ぼうとしないでしょう。
本を読むこともなく、自分とその周囲の限られた経験だけが「知識」になってしまう場合もあったのではと思われます。
乱読・多読大歓迎! 英語の長文読解勉強法とも共通してる?
7歳の渋沢栄一少年に学問を教えていた尾高新五郎は、当時17歳。
今でも17歳の高校生が、塾のアルバイトで小学生に勉強を教えることはありますが、栄一の印象ではこの新五郎、江戸にある湯島聖堂(儒学の祖・孔子を祀る)附属の聖堂学問所(当時の国立大学)で教鞭を執る先生方にも負けないほど、漢文をすらすら読んだそう。
また教授法も独特で、当時の一般的な方法(何度も繰り返して漢文を暗唱させる方法)ではありません。
最初は一字一句暗記させるより、数多くの書物をさっと通読させて、解釈は本人の考えに任せ、自然と読解力をつけるという方法でした。
そして新五郎は、「読解力をつけるには読みやすいものから入るのが一番良い」という考えの持ち主でもあったのです。
今でも国語はもちろん、外国語の読解力をつけるためにもふさわしい方法になるのではないでしょうか?
「『四書五経』を丁寧に読んで腹に入れても、本当に自分のものとなって役に立つようになるのは、だんだん年を取って社会で様々なことを経験してからだ」ということを、20代前後の新五郎が説いていたというのもすごい! まだ若いのに、どんなことを経験したんだろう。そちらの方が気になります。
こんな状態を4~5年続けているうちに、だんだん栄一は、読書が面白くなってきました。
一般常識や道徳教育を身に着けるため、儒学の本や日本と中国の歴史書なども読みましたが、『通俗三国志』や『南総里見八犬伝』など血沸き肉躍る小説が大好き! 私も大好きだからわかります!
12歳の正月には、晴れ着であいさつ回りに行くのに本を読みながら歩いていて、溝の中に落ちて晴れ着を汚してしまい、母親に叱られたというエピソードがあります(ドラマでも登場していました)。
今だったら、スマホで本を読んでいて、歩きスマホで大迷惑!というところでしょうか。
子供の頃に小説で培った読解力がなければ、『論語』を読み解いて近代資本主義社会と両立させようとする、生涯を貫くテーマも存在しなかったもしれませんね!
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