法華堂後の更に奥、石段の先にあるのは
2021年3月初旬、鎌倉を訪れました。今回の旅の目的は、『鎌倉殿の13人』に登場する北条氏や鎌倉幕府に関係する場所に行ってみること。
源頼朝や北条義時の墓参り(義時の墓は痕跡なし)をしたのですが
義時の墓である新法華堂の跡地の奥に、更に上へと続く石段があります。
鳥居もあるし、気になりますね。もちろん登ってみました。
同じような石段が2つあります。とりあえず、鳥居のある左の方を登ってみました。
どうして2つもあるのだろう? と考えながら登っていくと3つ並んだやぐら(横穴形式の墓)がありました。
その中央こそ、鎌倉幕府の知恵袋・大江広元の墓。
左の段を登って正解! ちなみに左の石段と右の石段は、同じやぐらに続いてはいますが、右のやぐらは独立しているような感じがしました。
大江広元親子の墓?
『鎌倉殿の13人』でも毎回登場し、重要人物である大江広元ですが、元々は兄の中原親能(なかはらのちかよし 彼も13人の1人)が源頼朝と親しく、その縁で鎌倉に下り、公文所(後の政所)の初代別当の1人として、朝廷との交渉(守護・地頭の設置を提案)など、幕府の政治に広く関与しました。
「成人してから後、涙を流したことがない」という彼ですが、なぜか実朝暗殺の日には、朝から?涙が止まらなかったとか。
承久の乱では、積極的に京を攻める主戦論を唱え、ややもすれば慎重になる鎌倉幕府の御家人たちを、北条政子らとともに鼓舞。幕府軍勝利に導いた功労者の1人とされています。
そんなすごい大江広元の墓がここに!と思っていたのですが、後で調べると、これは江戸時代後期の1823(文政6)年に、長州藩が作ったお墓なのだとか。
広元の四男・季光(すえみつ)は、鎌倉中期の宝治合戦で三浦一族とともに自害しますが、その末裔の1つが、あの長州藩につながる安芸毛利氏なのです。
ちなみに、広元の墓の左のやぐらが、その四男・毛利季光の墓所とされています。
薩長のプライドがこんな所にも?
一方、大江広元の墓の右側にあるのは、島津忠久の墓。
島津氏の祖で、母は頼朝の乳母子(あるいは愛人)とも言われ、比企能員の妹とも言われています。
恩賞として頼朝から、南九州にあった摂関家の島津荘(宮崎・鹿児島にまたがる日本最大級の荘園)の地頭に任命され、鹿児島との関係が始まりました。
ここにある彼の墓は、江戸時代に薩摩藩主・島津重豪(しげひで 斉彬や篤姫の曽祖父)が、1779(安永8)年に源頼朝の墓と共に建立。
薩摩藩にしてみると、源頼朝のご落胤説もあるご先祖の墓を、源頼朝と同様立派にして、頼朝の墓のそばにご先祖も葬ろうという意図があったようですね。
一方、長州藩の毛利家にしてみれば、頼朝のご落胤ではないけれど、こちらも鎌倉幕府の最有力人物を祖先に仰いでいるという対抗意識があったのかも。
同じような場所に行くのに、石段が別々に2つあったり、
隣り合っているお墓なのに仕切りがあって行きにくかったり(毛利エリアと島津エリア)するのは、幕末以前から対抗意識があったということでしょうか。
個人的には、大江広元の墓と島津忠久の墓の間が、もう少し通りやすくなればいいなと願っています。
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