小田原北条氏と関所橋
2021年3月初旬、鎌倉を訪れました。今回の旅の目的は、『鎌倉殿の13人』に登場する北条氏や鎌倉幕府に関係する場所に行ってみること。
今日も鎌倉駅から徒歩移動し、最初の目的地、永福寺(ようふくじ)跡を目指すことにしました。
筋替橋のある県道204号は、かつて金沢街道と呼ばれた道。鎌倉と六浦(むつら 横浜市金沢区)の港をつなぐ重要な道でした。
そこに面白い名前の橋があります。
「関所橋」という名前ですが、鎌倉時代のものではなく、戦国時代にこの地を支配した小田原北条氏(鎌倉時代の執権北条氏とは全然別の一族です)にゆかりの橋でした。
この近くに、小田原北条氏3代目当主の北条氏康が関所を作ったため、この名前になったのだとか。
近くには「銭取場跡」の碑もあります。ここで通行料として、銭を徴収していました。
地元の小学生の説明書きがかわいい! いかにも鎌倉らしいです。これによると、商人の荷物や乗馬の旅人からは通行料を取っていたようですが、地元の庶民や僧侶からは取っていなかったことがわかります。良心的ですね!
関所設置の目的は、荏柄(えがら)天神社の再興でした。
上の写真は金沢街道沿いにある荏柄天神社の一之鳥居です。鎌倉時代には幕府の鬼門を守護するとして、篤く崇敬されていました。
その後も権力者の庇護を受け続け、現在も鎌倉で「学問の神」として親しまれています。
一之鳥居から社殿までは少し距離があり、寄り道しているとますます永福寺跡に着くのが遅くなりそうだったので、今回は諦めたのですが、
今度鎌倉を訪れたときには、ぜひ参拝してみたいです。
北条義時・泰時が住んだ大倉亭はどこに
ちなみに、グーグルマップによると、この辺りにも北条義時の館があったそうです。
「大倉館」推定地とあります。大倉亭とも呼ばれています。
でも、北条義時の館跡といえば、今は宝戒寺となっている辺りの「北条執権邸跡」ではないのかな?
調べてみると、北条義時は元々大倉御所の東隣に館を建てていましたが(大倉亭)、和田合戦の起こった頃は大倉亭を長男の泰時に譲り、自分は小町通りに館を建てて移り住みました。この小町通りの館が北条執権邸跡(小町亭)です。
1219年に源実朝が暗殺され、源氏将軍が断絶すると、義時は大倉御所の東隣にあった大倉亭に移り、危機対応にあたります。入れ替わって泰時が、小町亭に入りました。
その後も義時は大倉亭で暮らし、この館で亡くなりました。
そういう経緯があるとは知らず、大倉亭の存在も知らなかったのですが、どうやらビルの1Fに館の遺構が残っているそうです。詳しくはこちらをご覧ください。
ガイドブックにはまだまだ掲載されそうにないですが、新しい歴史スポットとして認知されていけばいいですね。
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