2022年8月29日(月)、初めて岩手県の盛岡市を観光しました。
台座だけが残る南部中尉像
盛岡城址公園(岩手公園)には、印象的なものがたくさんありましたが、その中の1つが、銅像がなく台座だけが残っている不思議な物体。
本丸跡のすぐ近くにありました。しかもかなり立派な台座です!
調べてみると、南部利祥(としなが)中尉の銅像台座でした。
銅像は太平洋戦争時の金属不足の際、供出されてしまったのです。
昔の面影は、公園の案内板にありました。どうやら騎馬像のようでした。
南部家当主、満州に散る
さらに調べてみると、銅像の主・南部利祥は最後の南部(盛岡)藩主・南部利恭(としゆき)の長男で、学習院初等科3年生の時、皇太子(のちの大正天皇)のご学友にも選抜されました。
教育係(東条英機元首相の父)の勧めで陸軍に入り、父親の死去に伴い第42代南部家当主となった後も日露戦争に従軍し、満州最前線で騎兵中尉として活動していたそうです。
小隊長として最前線で指揮を執った南部中尉でしたが、1905年3月4日、井口嶺(せいこうれい)の戦いで銃弾を浴び戦死。
その際、同じく従軍していた竹田宮恒久王の盾になる形で戦死したと伝わっています(南部家は弟が継承)。
ちなみに、竹田宮恒久王の子は1964年東京五輪の招致に尽力した竹田常徳(つねよし)、その子は2020年東京五輪誘致に尽力した竹田常和、さらにその子は作家やコメンテーターとしても知られる竹田常泰です(敬称略)。
竹田宮恒久王は、日露戦争後に結婚しました。もし彼が戦死していれば、日本の歴史(特にスポーツ史)は少し変わっていたかもしれませんね。
戊辰戦争で賊軍扱いだった盛岡など岩手県の人たちにとって、南部中尉の行動は「自分たちは賊軍ではない!」と証明する何よりも重みのある行動だったのでしょう。江戸時代なら殿が討ち死にするなんてまずあり得ない。ここにも「四民平等」の影響が出ています。
南部家当主の、日露戦争での名誉ある行動を記念して、本丸近くに立派な銅像ができたのですね。ただ、南部中尉の銅像自体は復元の計画はなく、当分台座だけの状態が続きそうです。
南部藩藩主を祀る櫻山神社
盛岡城址公園の一角に、櫻山神社という立派な神社がありました。
ここは、南部家初代の南部光行、南部藩初代の南部信直、その子南部利直(盛岡城築城と城下町建築)、11代藩主南部利敬(蝦夷地警備や藩財政の立て直し)の4人を祀っています。
夏らしく、朝顔や風鈴が飾られていて、とても涼し気。
現在では、郷土守護の神として信仰されているようです。
この紋は、南部家の家紋・南部鶴。
境内には、戊辰戦争殉難者の慰霊碑もありました。賊軍とされた南部藩の人たちの苦労がしのばれます。その一方で、このような慰霊碑は今回見かけなかったけれど、江戸時代には南部藩では多くの人たちが飢饉で亡くなったことも、忘れてはいけないなと思いました。
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