2022年10月20日(木)、兵庫県赤穂市を訪れました。早朝の坂越(さこし)駅周辺を散策した後、赤穂市立海洋科学館・塩の国で塩づくり体験、赤穂御崎(あこうみさき)に移動して銀波荘で絶景露天風呂に感動し、以前断られたSakuragumiでのランチも堪能できました。
大願成就の赤穂大石神社
赤穂での最後の訪問先は、赤穂城跡と赤穂大石神社。忠臣蔵で名高い赤穂では、どちらも外せない観光地です。
下り坂に注意しながら自転車を走らせ、
まずは赤穂城内にある赤穂大石神社へ向かいました。ここは大石内蔵助邸宅跡であり、今回は拝観しませんでしたが、大石邸庭園なども残されています。
四十七士の像が、ずらりと並んでお出迎え。
四十七士のリーダー、大石内蔵助です。江戸時代には表立って祀ることが憚れていましたが、明治になって神社創建の動きがあり、1912(大正元)年に完成しました。
立派な参道にある2本の柱石には
東郷平八郎が揮毫した文字(篆書体)が刻まれています。忠義を重んじ守る心を意味する「忠魂義膽(ちゅうこんぎたん)」の後半「義膽」の文字は、初めて見ました。
境内にも大石内蔵助の像。
幾多の困難にも負けず本懐を遂げた彼らにちなみ、大願成就のご利益があるとか。
特に大それた野望などはないのですが、私や家族の幸せというのも、大願成就だと思います。
境内には義士史料館(入館料450円)もあるのですが、時間の関係で今回は割愛し、御朱印(300円)を頂くのみにしました。
有力家臣の屋敷跡
赤穂城跡の濠近くには、有力家臣の屋敷跡がいくつか残っていました。
大石内蔵助の叔母と結婚していた近藤源八(討ち入りには加わらず)宅跡の長屋門。
こちらは大石内蔵助邸跡の長屋門。浅野内匠頭が起こした事件を伝える使者が到着したのも、この門だったそうです。
家老屋敷だけあって、かなり格がありますね。
浅野内匠頭の側近で四十七士の1人、片岡源五右衛門宅跡も城内にありました。
城の本丸に一番近い場所にあったのが、大石頼母助(たのものすけ)の屋敷門。
大石内蔵助の大叔父にあたり、やはり家老を務めていた人物だそうです。
儒学者であり軍学者としても名高い山鹿素行が、『聖教要録』で朱子学を批判したとして赤穂へ配流された折、素行はこの屋敷の一角で蟄居していたのだとか。
赤穂城の二之丸門跡のそばには、素行の銅像もありました。
平和な時代に実践を意識して設計された赤穂城
広大な赤穂城跡は、現在国の史跡となっていて、整備工事も進んでいます。
こちらは三之丸大手門と隅櫓(すみやぐら)。
江戸時代に建造された城郭の中でも比較的新しい時代にできた城(4代将軍家綱時代)ですが、
平和な時代にあっても戦いを意識して設計され、屈曲した石垣が随所にありました。
二之丸門の枡形石垣は、山鹿素行が軍学の知識を生かして手直ししたのだとか。
発掘調査でもこの事実が裏付けされました。
ここからは本丸です。
本丸御殿跡。現在建物は残っていません。
昔は兵庫県立赤穂高等学校がありましたが、国史跡に赤穂城跡が認定されたため、高校は赤穂市立海洋科学館・塩の国の近くに移転しました(写真は赤穂城跡パンフレットより)。
美しく整備された本丸庭園。
庭園の近くには天守台もありますが、天守は最初から築かれなかったそうです。
天守台からの眺めです。昔は塩田が広がっていたのでしょうか。今ものどかな風景ですが、気になったのが、左側の煙突。
お城通りからもよく見えるのです。調べてみると、関西電力赤穂発電所の煙突でした。
お城印は、JR播州赤穂駅の観光案内所で入手可能です(300円)。
お城通りと義士あんどん
赤穂城跡から、JR播州赤穂駅に続く道がお城通り。
城下町を意識した、美しい町並みが続きます。
お城と駅のちょうど中間にあるのが、いきつぎ広場。
早水藤左衛門・萱野三平の両名が、早かごで主君刃傷の凶報をもって江戸より駆けつけた際、この広場にある井戸で一息ついて城内の大石内蔵助邸へ入ったといわれています。
井戸は見なかったのですが、自転車で通るときにちらりと見かけたのが、このからくり時計。義士あんどんという正式名で、9:00~20:00の毎正時になると、義士の音楽と共に扉が開かれ、からくり人形が忠臣蔵名場面「松の廊下」「はやかご」「勝どき」などを再現するそうです。
私たちは時間が合わず、行きも帰りも見ることはできませんでしたが、興味のある方はぜひ時間を見計らって、名場面を見てくださいね。
コメントを残す