五島列島福江島に行ってみた5 明治のキリシタン弾圧「五島崩れ」ゆかりの地を巡る

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2022年12月30日(金)、福江島2日目です。この日は終日、五島タクシーの中野運転手に、島内を案内していただきました。

楠原牢屋跡

堂崎天主堂の次に訪れたのは

五島列島福江島に行ってみた4 堂崎天主堂で五島キリシタンの歴史を学ぶ

2023年1月24日

楠原(くすはら)牢屋跡という場所でした。

幕末開国後の1865(慶応元)年、長崎の大浦天主堂を数人の潜伏キリシタンが訪れ、信仰を告白。

この「信徒発見」以後、五島を含むほかの地域でも信仰を表明する潜伏キリシタンが現れましたが、依然として、キリシタンへの迫害は続けられました。

時代が明治になっても、政府はキリスト教の禁止を「五榜の掲示」で布告。「浦上四番崩れ」や「五島崩れ」と呼ばれる大規模な摘発が始まったのです。

1868(明治元)年11月、五島列島の久賀(ひさか)島で潜伏キリシタン約200人が捕縛された後、弾圧の手は福江島にも伸び、水ノ浦や楠原地区の潜伏キリシタンたちも取り締まりを受けました。

帳方(ちょうかた キリシタン組織の最高責任者)・狩浦喜代助の自宅が牢として改造され、

33人の男性信者がここに投獄された後、水ノ浦の牢に移されました。水ノ浦の牢では、拷問なども行われていたそうです。

この建物は、当時牢屋に使われていた材木などを使って縮小・復元されたもの。

わずか6坪ほどの狭い牢に約200名もの信者が収容され、身動きも取れず、死亡者42名(うち、出牢後の死亡者は3名)を出した久賀島ほどではなかったでしょうが、さぞや辛かったことと思います。

1871(明治4)年に彼らはようやく釈放。

その2年後、キリスト教禁止を定めた五榜の掲示の高札が撤去され、キリスト教の信仰が認められたのです(上の写真は「信仰の自由百年祭記念碑」)。

カトリック楠原教会

牢屋跡からほど近い場所に建っているのが、カトリック楠原教会。

江戸時代に五島列島を支配していた五島藩は人口減少に悩まされ、人口増による産児制限に頭を抱えていた大村藩に働きかけて、外海(そとめ)地方からの移民受け入れを決定。外海地方は、今の長崎県西彼杵(にしそのぎ)半島にあります。

第一弾の108人が1797(寛政9)年に移住し、開拓者として土地を与えられました。彼らの多くは、大村藩領での弾圧を逃れてきた潜伏キリシタンだったと言われています。

六方(むかた)の浜から上陸した彼らの一部が、移住して開墾したのが楠原地区。

1912年に完成したこの教会は、下五島(福江島など五島列島南西の島々)では堂崎天主堂に次いで古いものだそうです。

コロナ感染対策のためか、内部を拝観することはできませんでしたが、窓から少しだけ、内部の様子を拝見。

ポルトガルのファティマに出現した聖母マリアと、牧童たちの像もありました。

カトリック水ノ浦教会

次に訪れたのは、カトリック水ノ浦教会。

水ノ浦も楠原と同じく、1797年に移民した108人のうち、5人の男性とその妻子らが移住し、潜伏キリシタンとして信仰を守っていました。

1868(明治元)年12月25日(クリスマスの日)、帳方の家に集まって祈っていた彼らは役人に踏み込まれ、結果的に33名の男性信者が逮捕されてしまいます。

大半の信徒は翌年出牢を許されましたが、主だった8名はさらに2年あまりを牢内に留めおかれました。

禁教の高札撤廃から7年後の1880年に最初の教会がこの地に建てられましたが、老朽化のため建て替えられ、1938年に完成。

今まで訪れた堂崎天主堂やカトリック楠原教会はレンガ造りでしたが、こちらは白亜の教会堂です。

ゴシック様式とロマネスク様式、そして和風建築が融合しているのだとか。

こちらも残念ながら内部を見学することはできませんでしたが、

迫害に耐えて信仰を守り続けた人々の情熱の一端を感じることができました(門に記されているのは「ヨハネによる福音書」の一説)。

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