『どうする家康』ゆかりの新城市・設楽原を歩く4  設楽原歴史資料館で見た、タイ産鉛の鉄砲玉

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2022年5月5日(木)、大河ドラマ『どうする家康』でも描かれた、長篠の戦いゆかりの場所を訪れました。

断上塚古墳から設楽原歴史資料館へ

JR飯田線の三河東郷駅から徒歩で設楽原(したらがはら)の決戦場、徳川家康の本陣や物見塚(結局物見塚は見つけられませんでしたが)を観光した後

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新城(しんしろ)市立設楽原歴史資料館を訪れました。

断上塚古墳からは、徒歩で約10分ほど。

途中には、「竹広激戦地」の碑も。武田軍の武将・山県昌景の墓もこの近くにあるそうです。

しばらく歩くと、鉄砲隊や

お盆の夜、設楽原決戦場近くの武田戦死者を葬った「信玄塚」で400年以上行われている「火おんどり」(巨大な松明を、鉦や太鼓の囃子に合わせて振り回す祭り)のレリーフが描かれた石垣が登場。

やがて資料館が見えてきました。資料館の前の銅像は、幕末に日米修好通商条約に調印するなど外交面で活躍した幕臣・岩瀬忠震(いわせただなり)。東郷一帯を治めていた旗本・設楽(したら)家の出身という縁で、資料館では彼の事績も紹介していました。

歴史資料館で改めてわかること 充実した展示は面白い!

初めて訪れた資料館には、興味深いものがたくさんありました。

伝説の火縄銃「信玄砲」。

日本最古の火縄銃かもしれないとのこと。

そして最近テレビでも時々紹介される、戦場から出土した鉄砲玉。一番左の弾丸は、タイ国カンチャナブリ県のソントー鉱山産(バンコクから北西約250km)の鉛だとの分析結果が! 日本製の鉛玉の方が多いのですが、南蛮貿易で入手した弾丸も織田軍は使用していたということです。物量作戦はやはり、南蛮貿易港である堺を握っている信長の得意技でした。

武田軍と織田・徳川連合軍の進路や

馬防柵を中心とする設楽原の模型もあって、信長の土木工事の狙いがよくわかります。

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設楽原と長篠城の距離感も、とてもよくわかりました。

なお、資料館にはこの他にも、鳥居強右衛門(とりいすねえもん)の磔図や岩瀬忠震の肖像画などがあり、時間があればもっとゆっくり見て回りたい場所でした。

偶然見かけた「山の湊号」から江戸時代の賑わいを知る

慌ただしく資料館の見学を終え、大急ぎで三河東郷駅に向かいました。

資料館から三河東郷駅までは、15分ほど。でも急がないと、電車に乗り遅れてしまうかも。乗り遅れた場合、次の電車が来るまで、1時間以上も待たなければなりません。

歩いていると、目立つバスが走っていました。後で調べてみると、新城市と名古屋市(名東区)・長久手市を結ぶ高速バス・「山の湊(やまのみなと)号」。座席指定制なので、乗車するには事前の予約が必要だそうです。

バスの名前の由来となったのは、「山湊馬浪」(さんそうばろう)という言葉。江戸時代の庄屋が「山の中の川辺に港の様に船が集まり、荷を引く馬がまるで波のようにやって来る」と、この地の賑わいを表現したことにちなんでいます。

ちなみに、新城市の「新城」とは、長篠の戦い後、家康の長女・亀姫と結婚した長篠城主・奥平信昌が築いた「新城(しんしろ)城」から取られたのだとか。地名一つとってみても、新城市は奥が深いなと思いました。

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