『どうする家康』ゆかりの新城市・設楽原を歩く2  織田軍は鉄砲隊だけでなく、土木技術もすごかった

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2022年5月5日(木)、大河ドラマ『どうする家康』でも描かれた、長篠の戦いゆかりの場所を訪れました。

決戦は設楽原! その理由は?

JR飯田線の三河東郷駅から、徒歩で長篠の戦いの決戦が行われた場所・設楽原(したらがはら)へ。

『どうする家康』ゆかりの新城市・設楽原を歩く1  各地に残る激戦の痕跡と長篠合戦図屏風の謎

2023年7月13日

武田軍に攻撃されている徳川方の長篠城を救うため、織田・徳川連合軍によって戦われた合戦ですが、長篠城から決戦場の設楽原までは、かなりあるようです。

私たちには車がないため徒歩で行くには時間がなく、長篠城は今回パス。でも普通考えたら、長篠城を救援に来るんだったらもう少し城に近寄ってもいいはず。なぜ決戦場は設楽原になったのかな? と調べてみたら

信長は最初から、この戦いを鉄砲隊の物量作戦で勝ちにいく作戦。でも鉄砲隊は火縄銃の操作などで、敵からの攻撃には無防備です。その弱点を補うため、設楽原に馬防柵や土塁を築きました。彼としては、ここで戦いたい。

一方武田軍では、信玄の代からの重臣たちは信長出馬と聞いて撤退を主張しますが、武田勝頼は設楽原での決戦を選択。

武田軍を確実に設楽原へ誘い込むため、徳川重臣・酒井忠次は別動隊を出して長篠城救援に成功し、武田軍の退路も断ちました。

家康家臣の大久保忠世(ただよ)らが、馬防柵の外で命がけの挑発を行ったのも、武田軍を確実におびき寄せるためでした。

『どうする家康』ゆかりの新城市・設楽原を歩く1  各地に残る激戦の痕跡と長篠合戦図屏風の謎

2023年7月13日

初めて見た馬防柵!

設楽原の決戦場には、信長が築かせた馬防柵が再現されていました。これは徳川軍陣地から見た馬防柵。

「えんえんと 柵木岐阜より かつぎくる」という設楽原古戦場いろはかるたの看板がありました。織田信長は岐阜城を出発する際、足軽雑兵に至るまで柵木と縄を携行させていたそうです。馬防柵は布陣の翌日には完成したとか(早っ!)。

連吾川、急斜面、馬防柵といくつもの防御を施されているとはいえ、ここにいる鉄砲隊は、きっと武田の騎馬隊の突撃を見て、生きた心地もしなかったのではと思いました。

しかし貿易港(良質の火薬や弾丸が手に入る)&鉄砲製造地の堺を手中に収めた信長は、3,000丁の鉄砲という物量作戦で、武田の騎馬隊に立ち向かいます。

武田軍の土屋昌続(つちやまさつぐ)戦死の地碑。彼は織田勢の三重馬防柵の二重目までは突破したけれど、一斉射撃で戦死しました。「土屋昌続 柵にとりつき大音声(だいおんじょう)」のいろはがるた看板が立っていました。

こちらは、決戦場奥にある名和式鉄砲構え。空堀と馬防柵と土塁がセットになって構成されていた防御施設の複製です。

武田軍から見た設楽原

こちらの山が、(多分)武田勝頼の本陣のあった場所。

馬防柵の方を見ると、こんな感じ。今は馬防柵しか見えませんが、決戦では、山のあちこちに武将の幟が立っていたでしょう。

信長は連吾川を掘に見立て、川を挟む台地の両方の斜面を削って人工的な急斜面とし、三重の土塁に馬防柵を設けるという、ある種の城砦を建設しました。

武田の軍学書である『甲陽軍鑑』には「柵の木三重まであれば、城攻の如くにして、大将ども尽鉄炮にあたり」との記述があります。武田軍の無念が伝わってくるようです。やはり勝敗を分けるのは、物量なのでしょうか。

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