今年のNHK大河ドラマ『光る君へ』の主要舞台の1つが、男性貴族たちの仕事の場でもあり、天皇の后妃たちや女官(女房)たちが働いたり生活したりする場である「宮中」=御所、別名内裏(だいり)です。
平安時代の御所は、今の京都御所ではない
平安時代の御所は、今の京都御所とは違う場所にありました。京都御所よりも1.7km西の千本通り沿い(二条城の北西)がその場所で、発掘調査によっていくつかの建物の跡地が判明しています。
天皇の元服(成人の儀式)や立太子礼(正式に皇太子になる儀式)など重要な儀式や政務を行った紫宸殿(ししんでん)の場所や
天皇の日常生活の場であった清涼殿(せいりょうでん)の場所にも、案内プレートがあるようです。いつか見に行きたい。
京都御所は、通年公開されていた
平安時代から御所は何度も火災に遭い、その際貴族の邸宅などが、仮の御所=里内裏(さとだいり)とされました。
現在の京都御所の場所も、「土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)」という里内裏の1つで(藤原道長の邸宅・土御門第のすぐ近く)
鎌倉末期(1331年)から明治2年(1869年)まで、天皇の御所として使用されました。京都御所というと、春と秋の特別公開しか見学できないというイメージがあったのですが、2016年夏から、事前の申し込み不要(無料)で通年公開されていたのでした(通年公開について、詳しくはこちらをご覧ください)。知らなかった!
そういえば、昔訪れた桂離宮も、人数制限はあるけれど、事前申し込み不要で見学できたのでした。宮内庁は昔に比べると、ずいぶん親切になってきているようですね。
というわけで、昨年の6月下旬に京都御所を見学することにしました。
高御座や御帳台を見るなら特別公開を待とう
最初は仮住まいのつもりだった「土御門東洞院殿」が御所として定着する室町時代以降には、平安時代まで大極殿(だいごくでん)で行われていた天皇の即位礼は、紫宸殿で行われるようになり、明治、大正、昭和と三代の天皇の即位礼も、ここで行われました。
承明門から見た紫宸殿。京都御所において最も格式の高い「正殿(せいでん)」です。
ちょっと斜めになっていますが、全景はこんな感じ。伝統的な重要儀式を行うため、幕末の建築ですが、平安時代の建築様式で建てられています。
1868(慶応4)年、『五箇条の御誓文』が発布されたのも紫宸殿でした。
即位礼で使用される天皇の御座「高御座(たかみくら)」と、皇后の御座「御帳台(みちょうだい)」も紫宸殿にあります。
私たちが訪れた通年公開時には、紫宸殿を遠くから見るだけで、高御座や御帳台は写真パネル展示でした。後で調べると、春と秋の特別公開の際には、高御座や御帳台が公開されるそうです。本物をぜひ見たいなら、その時に行くのがお勧め。
これも後で知ったのですが、皇后の御帳台は大正天皇即位の際に、新たに並置されました。よく考えれば、『源氏物語』冒頭の「女御、更衣あまた候ひ給ひける」状態では、誰を皇后にするかなんて、即位後でないと決められません。時には幼い天皇や女帝が誕生することもあり、即位礼では高御座しか設置されませんでした。
また明治までは高御座では椅子でなく、2種類の敷物を敷いて座っていました。百人一首の絵札のようなイメージですね。
『光る君へ』で高御座のエピソードはあるのか
大河ドラマ『光る君へ』で強烈な印象を放つ花山天皇(第4話で即位?)は、天皇に即位する前、高御座に美しい女官を引き入れ関係を持ったという、とんでもない逸話の持ち主(女癖悪すぎ)。
また花山天皇は、藤原道長とその兄たちに肝試しをさせ(「殿上の肝試し」)、長兄の道隆(道長より13歳上)には豊楽院(ぶらくいん)、次兄の道兼(道長より5歳上)には仁寿殿(じじゅうでん)の塗籠(ぬりごめ=土壁で覆われた閉鎖的な部屋)へ、道長には大極殿へ行けと命じました。3ヶ所ともこの当時にはほとんど使われなくなった建物で、夜間など特に人の気配もなく、鬼が出るという噂もありました。
2人の兄たちが途中で逃げ帰った(道兼さんまで!)のに対し、道長だけは平然と大極殿へ行き、証拠として高御座の南面の柱の下を少しだけ削り取って帰ったというエピソードが、『大鏡』に掲載されています。
即位前の花山天皇の行為もさることながら、肝試しの証拠として、勝手に臣下に削られる高御座! 平安貴族や皇族たちには、「神聖なもの」という意識はあまりなかったのかな? この2つのエピソードは、果たして大河ドラマでは描かれるのでしょうか。
ちなみに、道長が肝試しで行くことになった大極殿は、8分の5の規模で平安神宮の外拝殿に再現されています。こちらもご覧くださいね。
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