『光る君へ』ゆかりの京都巡り2  藤原道長の運が開いた土御門邸跡

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今年のNHK大河ドラマ『光る君へ』の主人公は、『源氏物語』の作者として知られる紫式部。

彼女の生涯は、本名や生没年も含めわからないことばかりなのですが、ドラマの世界で彼女と不思議な運命で結ばれる藤原道長については記録も多く、彼の日記(『御堂関白記』)が残っているのである程度分かります。

今回ご紹介するのは、紫式部の邸宅跡と考証される廬山寺のすぐ近くにある、藤原道長ゆかりの場所です。

『光る君へ』ゆかりの京都巡り1  紫式部の邸宅跡・廬山寺と『源氏物語』頻出の「中川」

2024年1月24日

左大臣の姫と結婚し、運と財力を掴んだ藤原道長

京都御所を取り囲む広大な緑地は、京都御苑(ぎょえん)と呼ばれています。

元々は御所を囲んで公家の屋敷が建ち並んでいたのですが、明治になって天皇が東京に移ると、公家たちの多くも東京に移住。主を失った公家屋敷の大半が、荒れ果ててしまいました。それを悲しんだ明治天皇の命令によって、緑化を行い、住民憩いの場とされたそう。

その緑地の東側にあったのが、藤原道長の主要な邸宅・土御門(つちみかど)第の跡地です。昔はここに、寝殿造の屋敷や、池や庭園などがあったのでした。訪れたのは昨年6月。ちょっと案内板の文字が消えかけていたのが悲しいです。大河ドラマ放映もあるし、せめて文字が見えるようにしてほしいな。

元々は左大臣・源雅信(まさのぶ)の広大な邸宅でした。彼は宇多天皇の孫で円融天皇からも信頼され、娘の倫子を何とか入内(じゅだい=天皇へ嫁ぐ)させようとしますが、なかなか機会に恵まれません。そんな折、道長が倫子に求愛するのです。

彼は「2人の兄に比べて出世の見込みがない」と道長の求愛を却下しますが、彼の正室で倫子の母・穆子(ぼくし ドラマでは「むつこ」)が、天皇と結婚して皇子の誕生を待つよりも、実力者・兼家の息子と結婚する方が娘の幸せになると判断し、結婚を強引に進めたのです。そのため道長は、穆子に頭が上がりませんでした。

結果的には穆子の見立て通り、道長はこの後幸運にも恵まれて、予想外の出世を遂げます。

当時の結婚は、夫の衣食住は全て妻の実家が面倒を見たので、道長は土御門第、つまりこの場所で主に暮らしていました。雅信の死後は道長に相続され、ここで娘の彰子ら6人の子供たちも誕生。そして彰子もこの屋敷で2人の皇子を産み、その様子を道長が紫式部に記録させたのが『紫式部日記』です。

この日記は鎌倉時代の前期に絵巻になり(国宝『紫式部日記絵巻』)、そこに描かれている藤原道長の絵姿は有名で、よくテレビや書籍などでも紹介されています。なかなかのイケメン貴公子ですね!

紫式部と左大臣家は遠い親戚

ちなみに穆子は中納言の娘で、紫式部の祖父とは従兄弟でした。紫式部の祖父も中納言の息子でしたが、出世できませんでした。

中納言は従三位(じゅさんみ)という上級貴族で国政にも参与できますが、紫式部の祖父は従五位下(じゅごいのげ)で受領(ずりょう=地方長官)どまり。父の為時も晩年の最高位が正五位下(しょうごいのげ)で、中納言とは大きな身分の隔たりがありました。

ドラマでは、左大臣の姫君・倫子のセレブな女子会に、紫式部(まひろ)も客人として参加していますが、彼女の身分を考えると確かに場違い。むしろ、赤染衛門のような女房として働く身分だったのです。

紫式部は土御門第でも働いていた

紫式部は夫と死別後シングルマザーとなり、道長の長女で一条天皇の中宮彰子に女房として仕えます。最初は一条院内裏が彼女の職場でしたが、彰子が出産のため実家に戻ると、紫式部も供をしてここで働きました。

ところで彼女の家(今の廬山寺)と、この土御門第って、とても近いのです。

徒歩で10分足らず。通勤には理想的な距離なのですが、当時の女房は住み込みで働きます。なまじ家が近いと、「帰りたいのに帰れない!」ということになって、却って辛いかな? 彼女はなかなか職場環境に馴染めず、『紫式部日記』の前半も、自分の辛さを書き綴っていたりします。この場所で、ホームシックになっていたかもしれませんね。

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