平戸訪問記3  復元平戸オランダ商館の内部  貴重な展示品の数々を堪能

スポンサーリンク



大航海時代ファンなら満足間違いなし

2024年2月24日(土)、初めて平戸を訪れた私たちは、最初の観光地・平戸オランダ商館を訪れました。

平戸訪問記2  復元された平戸オランダ商館  甦った白亜の1639年倉庫

2024年3月18日

平戸訪問記1  平戸オランダ商館への道  今も残るオランダ商館時代の名残

2024年3月17日

いよいよ商館内部に入ります。オランダ商館単独なら310円ですが、私たちは松浦(まつら)史料博物館にも行きたかったので、共通券(880円)を購入しました。別々に購入するより90円だけ安いです。

入館するとすぐ見えてくるのが、とても大きいオランダ船の錨。

大航海時代を象徴するような地図や

地球儀の数々。日本列島やその周辺の地形がどんな風に認識されているのか、見比べるのも面白いですね。

地球儀(右)と天球儀(奥)のセットもありました。この2つはいずれも、平戸藩第9代藩主・松浦静山が長崎出島より入手したもの。とても保存状態がよく、美しい!

日本に初めて漂着したオランダ船のデ・リーフデ号の模型。イギリス人航海士ウィリアム・アダムスが乗っていた船です。

オランダ船の船首飾と伝わる木像。左の人物は右手に巻物を持ち、右の人物はかなり長い縦笛を吹いています。いずれも船の守り神として、航海の安全を祈ったものと言われています。

これは桃山時代、ヨーロッパで大変人気のあった日本の輸出品「南蛮漆器」。海賊が狙っている「宝箱」のイメージにぴったりですね。

朱印状からジャガタラ文まで  外交関係を物語る展示品の数々

もう1つ感動したのが、江戸時代の日蘭外交や貿易に関する書状でした。

1609(慶長14)年、徳川家康がオランダ東インド会社の使節に対して発給した朱印状(原本はオランダハーグ国立公文書館にあり)。日本のどこの港に寄港してもよいことなどが保障されています。家康が、オランダをかなり優遇しているのがわかります。貿易と布教を一体化させているポルトガルやスペインと敵対し、布教にこだわらず、貿易の利益のみを求めるオランダやイギリスの存在は、家康にとって好都合でした。

初代及び第3代の平戸オランダ商館長ジャックス・スペックス。初期の日蘭交流の推進に努力した人物で

平戸観光交通ターミナルの中で見た、看板をぶら下げて案内していた銅像は彼でした(お疲れ様です)。

オランダ東インド会社の、VOCマークが刻まれている石材。平戸オランダ商館の建造部材としては、現存する唯一の資料なのだとか。アーチの要石(かなめいし)らしい。

上も徳川家康の朱印状ですが、こちらは1613(慶長18)年に来航したイギリス使節に対し家康が発行したもので、日本のどこの港に寄港しても良いことが記されています(原本はイギリスのオックスフォード大学ボドリアン図書館にあり)。

オランダやイギリスからは、最新式の武器も将軍に献上されたようです。

しかし家康の死後、海外貿易は縮小の一途をたどり、1639(寛永16)年には、外国人と関係のある日本人女性やその子供たち約40名が、ジャガタラ(現在インドネシアのジャカルタ)に追放されました。当初は日本との文通も禁じられていましたが、1660年代になって文通が許されました。

「こしょろ」という人物が、更紗(さらさ)という木綿布に書いた故郷への手紙=ジャガタラ文(ぶみ)。「日本こいしやこいしや」と最初と最後に繰り返し書かれているので、望郷の想いがとても強いことがわかります。

ただ、ジャガタラに追放された人々の中には、平戸オランダ商館長であったコルネリス・ファン・ナイエンローデと平戸女性の娘コルネリアのように、幸せに暮らした人もいました。この手紙にも、オランダ商館に勤務するオランダ人男性と結婚し、心配しなくても大丈夫と書かれています。

オランダ貿易の影響

展示で目を引くのが、

荷物を吊り上げる巻上機。

1639年建造の倉庫にもありました。

海外から輸入したり、日本から輸出される商品も、この滑車で吊り上げられ、倉庫に収納されたのでしょう。

オランダからは、インドネシアの更紗や

香木、

ヨーロッパ製カットガラス(ギヤマン)が輸入されました。

また南蛮貿易全盛時代から西洋文化が流入した平戸には、かすていらなど南蛮菓子や

エキゾチックなデザインの「南蛮鍔(つば)」など、独特の名産が生まれていきます。

映像資料も面白く、とても見どころのある施設でした。

スポンサーリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です