天下の難所・親不知とは
2024年3月25日(月)、初めて新潟県糸魚川(いといがわ)市を訪れた私たちは、駅前のホテルジオパークをチェックアウトし、
糸魚川駅からえちごトキめき鉄道日本海ひすいラインで、親不知(おやしらず)駅へ移動。
そこから徒歩で、海岸を目指すことにしました。目的はヒスイ探し。昨日立ち寄った糸魚川観光協会の案内所で、車がない私たちには親不知海岸がいいと勧めてくれました。
電車の中にあった「ヒスイ海岸」のポスター。富山県朝日町ですが、ここでもヒスイが拾えるようです。
糸魚川駅を出た列車は、青海(おうみ)駅を経て、10分ほどで親不知駅に到着です。2駅なので楽勝なのですが、実は青海駅から親不知駅までは「子不知(こしらず)」、親不知駅から次の新潟県最西端の市振(いちぶり)駅までが「親不知」と呼ばれ、北陸道最大の難所だったのです。その難所の中間あたりに、親不知駅はありました。
かつて越後国(新潟)と越中国(富山)を行き来する旅人は、日本海の断崖絶壁(高さ300~400m)下の狭い砂浜に沿って進まねばならず、荒波が来ると洞窟などに逃げ込むのですが、途中で波にのまれる人も少なくなかったのだとか。波打ち際を駆け抜ける際に親は子を忘れ、子は親を顧みる暇がなかったことから「親知らず・子知らず」と呼ばれるようになったと伝えられています。
そのため、親不知のある糸魚川市は、東西文化の境目になっているのだとか(写真は道の駅親不知ピアパークのパネル)
今回はヒスイ探しが目的だし、駅から4km歩くのは少々大変そうなので、「名勝天下の険」からその難所を見ることはできませんでした。観光パンフレットの写真を掲載しましたが、いつか絶対自分の目で見てみたいものです。
加賀百万石の大名行列も通った難所
そんな難所なのに、なんと加賀百万石の前田家は、参勤交代で江戸に向かう際、金沢からの最短コースで便利だからという理由で、親不知を通過。加賀藩の参勤交代ルートは、北陸新幹線ルートとほぼ同じなのも驚き(詳しくはこちら)。約480kmの道を13日で移動したそうです。
参勤交代時には、近くの村々(富山側)から400~500人の「波除人夫」が集められ、彼らの人垣で波を防いでいたのだとか。
さすがに明治になると、各地を巡行する天皇に危険な親不知を通らせるわけにはいかず、迂回して山道を通ることに。これがきっかけとなって、断崖を削って北陸街道が造られ、トンネルを掘削して鉄道も開通することになったのです。
北陸本線開通当時の面影を残す親不知駅舎
親不知駅は、1912(大正元)年に建てられた、国の登録有形文化財。駅名表示の字体が、時代を感じさせます。
明治末期の北陸本線駅舎の様子を伝える、貴重な木造瓦葺の建築物。
無人駅になって、もう30年になるのだとか。
でも昔は駅員もいて、駅事務室の一部が二階建て(上の写真右側)になっていて、休養室に充てられていました。
今は乗降客もかなり少ないようですが、なかなか味わい深い駅なので、もっと多くの人に利用してもらいたいなと思いました。
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