龍馬だけではなかった寺田屋騒動
「寺田屋騒動」「寺田屋事件」というと、坂本龍馬が伏見の船宿・寺田屋で幕府の役人たちに襲撃された事件を思い浮かべます。
寺田屋の女将・お登勢の娘分として預けられていた龍馬の恋人・お龍(りょう)が入浴中に異変に気付き、裸で階段を駆け上がって(異説あり)龍馬たちに急を知らせたため、龍馬たちはピストルで応戦できたエピソードで、広く知られています。
上の写真は、その時のお風呂だと言われています。
でもそれより4年前、『西郷どん』でも描かれた、薩摩藩士の粛清事件がありました。
1862年の寺田屋騒動です。
誤解された島津久光
1862年、薩摩藩の実権を掌握した島津久光は、兄・斉彬のなしえなかった挙兵上京を実行しました。
彼の行動は、全国の尊王派の注目を集めました。
大藩である薩摩藩の実力者が、幕府を倒すため兵を率いて上京したと期待したのです。
しかし彼は保守的で秩序を重んじる性格で、この時期は倒幕など考えておらず、あくまでも公武合体路線でした。
厳しい性格の久光は、自分の命令に背いて京都に行き、尊王派と接触した西郷や村田新八らに激怒し、彼らを捕縛して鹿児島に送るよう命じています。
さらに久光は、朝廷から過激な志士たちを始末するよう命令を受けました。
薩摩藩過激派の計画
自分たちの期待を裏切る久光の行動に、薩摩藩の有馬新七・柴山愛次郎ら勤王派は驚愕。
彼らは諸藩の勤王派と共謀して、関白と京都所司代を殺害し、その首を久光に奉じて無理矢理にでも久光の挙兵を促そうとしたのです。
この襲撃の前に、彼らが集結していたのが、薩摩藩士が定宿としていた伏見の船宿・寺田屋でした。
凄惨な上意討ち
志士たちの暴発のうわさを聞いた久光は、側近の大久保利通らを派遣して説得しましたが、失敗に終わります。
仲間を説得できず、切腹した薩摩藩士もいました。
島津久光は再度説得を試みますが、一方で従わぬ場合には上意討ちもあると言い含め、奈良原喜八郎や大山格之助など剣術に優れた藩士9名を鎮撫使として派遣します。
寺田屋の1階で、鎮撫使と有馬新七らが押し問答し、「君命に従わぬのか」と激高した鎮撫使の1人が「上意!」と叫んで斬りかかり、激しい同士討ちとなりました。
「オイ(俺)ごと刺せ!」と叫んだ有馬新七の壮絶な最期は、ドラマでも強烈に描かれましたね。
一方2階にいた西郷信吾や大山弥助らは、奈良原や尊王派志士の真木和泉(久留米藩士)らの説得で投降。
志士の6名が闘死、2名が重傷(のち切腹)、21名が帰藩謹慎、帰藩謹慎に従わなかった1名が切腹という処置となりました。
鎮撫使側では有馬新七が道連れにした1名が闘死、重傷1名、軽傷4名です。
浪人たちの運命
他藩の勤王派志士も投降し、それぞれの藩に引き渡されました。
引き取り手のない浪人ら6名は、鹿児島で引き取ると薩摩藩が申し出ましたが、彼らは勤王僧・月照の時と同様、船上で殺害されたのです。
薩摩藩の非情な措置は、月照だけに適応されたのではありませんでした。
今回感じたこと
有馬新七らこの事件で死んだ9名は後に「烈士」とされ、中心となった有馬新七は、のちに従四位の位を授けられています。
明治維新(=倒幕)を推し進めた側から見ると、彼らは不運な青年たちでした。
明治政府の高官になった人々の中には、彼らの近所だったり、血縁だったりした人々もいたでしょう。
でも立場を替えてみると、彼らはとんでもないテロリストだったのです。
志士たちの暴発を抑えた島津久光に対する朝廷の信望は、大いに高まりました。
誰よりも天皇を尊敬していたはずの勤王派の若者たちですが、もし、彼らが孝明天皇の本当の気持ちを知っていたら、暴発は果たして止められたでしょうか。
天皇の気持ちが伝わっても、「幕府を倒したい」という熱情が理性に打ち勝ち、やはり暴発を企ててしまったかもしれません。
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