『いだてん』金栗四三を学ぶ旅 玉名市歴史博物館こころピア~金栗四三の生家

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主人公が2人! 型破りの大河ドラマ

先週(2019年1月6日)から始まったNHK大河ドラマ『いだてん』は、主人公が2人います。

前半の主人公が日本で初のオリンピック選手(マラソン)の金栗四三(かなくりしそう)、そして後半の主人公が、「競泳日本」の名を戦前から轟かせ、1964年の東京オリンピック招致を成功させた立役者の1人・田畑政治(まさじ)です。

戦国時代の合戦や、幕末維新の偉人たち、信長や秀吉、江戸幕府の将軍や大名たちが誰も登場しない、明治末~昭和60年代を扱う大河は本当に久々です。

東日本大震災と福島原発事故を配慮したり、明治維新150周年にちなんだりなど、その時代に連動したテーマで製作されることもある大河ドラマですが、来年開催される東京オリンピックをドラマでも盛り上げようというわけですね。

主人公の名前の発音 玉名市歴史博物館で伺いました!

さて、この前半の主人公であるオリンピック代表マラソンランナー金栗四三さん。

私は彼を全然知らなくて、読み方がわかりませんでした。

昨年(2018年)2月24日(土)、玉名市歴史博物館こころピアで開催されていた「マラソンの父 金栗四三展」を見に行った時、思ってもみなかったのですが、学芸員の村上晶子さまにお話を伺う機会がありました(村上さま、ご多忙のところありがとうございました!)。

その時に、彼の名前の発音についてお尋ねしたところ、玉名市でも色々な読み方があるようなのですが、「かなくり しそう です」と仰っていました。

遺されている彼のパスポートは、「SHIZO」という表記です。

しかし、金栗四三本人が「SHISO」と署名しているものや、「しぞうでなく、しそうと読むのです」と記者に答えた新聞記事(1976年6月1日付け)もあります。

そこで、玉名市、和水町、南関町や玉名市・和水町・南関町大河ドラマ「いだてん」地域振興協議会で再確認を行い、さらに金栗四三の親族とも話し合った結果、今後玉名市では「しそう」との読みに統一することを発表しました(2018年1月29日玉名市月例記者会見)。

ドラマでも、金栗四三さんの名前の読み方は「かなくり しそう」と発音されています。

なお、彼は後に池辺家に養子に行ったので、23歳からの本名は「池辺四三」なのですが、養子先である池辺家の配慮と理解があり、終生、マラソン選手として有名になった「金栗四三」という名前を使いました。

キャリアと改姓の問題は、戦前からあったのですね。

私見ですが、男女別姓問題にも絡めて、考えてみたくなりました。

詳しくは、「金栗四三」さんの名前の読み方(玉名市HP)をご覧ください。 

また、この時に見学した「マラソンの父 金栗四三展」については、また別の機会に紹介させていただきます。

熊本県和水町にある、金栗四三の生家

金栗四三の生家は、先日(2019年1月3日夕方)に、震度6弱の地震に見舞われた、熊本県和水(なごみ)町に、今も残っています。

こころピアで金栗四三について学んだあと、さっそくタクシーで、彼の生家を訪ねてみました。

田原坂の古戦場にも近い場所で、この翌日(2018年2月25日)、西郷小兵衛の墓や田原坂の古戦場を訪ねることができました。

熊本県の『西郷どん』ゆかりの地 田原坂2 熊本市田原坂西南戦争資料館

2018年12月23日

熊本県の『西郷どん』ゆかりの地 西南戦争の激戦が繰り広げられた田原坂1

2018年12月23日

熊本県の『西郷どん』ゆかりの地 西郷隆盛小兵衛戦死の地~博愛社発祥縁起の地 

2018年12月21日

当時は、春富村と呼ばれていました。

金栗家は、15,6代も続いた村の旧家。確かに大きな家でした。

家の前には、四三についての解説や

彼の信条「体力 気力 努力」の文字を刻んだ石碑もありました。

私たちが訪れた時は、内部は公開されていなかったのですが、大河ドラマ効果で、2019年1月から、金栗四三生家記念館として、一般公開されているようですね。

「学校部屋」見たかったな。

少年時代の金栗四三と家族

四三は父親の金栗信彦が43歳の時に生まれたため、「四三」と名付けられました。

信彦は身体が弱く(胃病だったようです)、代々続いていた酒造業もやめてしまうのですが、四三が誕生した後も子供が生まれ、金栗家は男4人、女4人の8人の子だくさんでした(四三は7番目)。

信彦は温厚な人柄で大声を出したこともなく、誰からも愛されるタイプでした。

胃病に効くという重曹水を年中飲み、重曹を溶かすのは自宅の井戸の水に限るというので、どこに行くのにも、徳利に入れた重曹水を持ち歩いていました。

幼いころは虚弱体質で夜泣きの激しかった四三ですが、だんだん元気になり、隣の南関町まで1里半(約6km)の道のりを歩いて、父親が飲む重曹水のために、重曹を買いに行かされたようです。

両親と8人の子供、そして祖母がいる金栗家を支えていたのは長男の実次で、村役場に努めながら、田畑の仕事にも精出して、家を支えていました。

祖母のスマ、母のシエも健康で、スマは歌を詠んだり三味線を弾いたりする才女。幼い四三の遊び相手にもなってくれました。

金栗四三は、よく和歌を詠んでいるのですが、これは祖母のスマ譲りでしょうか。

母のシエも、朝から晩まで鍬をふるって家計を助ける働き者だったそうです。

シエは無口で控えめでしたが、温かい素朴な雰囲気を持ち、四三は終生、母をとても大切にしました。

金栗家は、昨年の西郷家のように、大家族でも仲良く過ごしていたようですね。

父の信彦は56歳で亡くなりますが、祖母スマは88歳、母シエは79歳、そして四三は92歳まで生きました。

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