2019年9月22日(日)、阪急河原町駅から、六道珍皇寺へ向かいました。
京都最大の大火
六道珍皇寺は、六波羅(六原)と呼ばれるエリアにあります。
四条河原町から南に下るのですが、グーグルマップのお告げでは、四条大橋を通らずに、その南の橋を渡るようにという指示がありました。
京都には何度か来ていますが、この橋を渡るルートは初めて歩きます。
途中、面白い光景を見ました。この自転車はインテリアかな? それとも実用品?
この橋が四条大橋の1つ南の橋。団栗(どんぐり)橋と言います。
かつて橋のたもとに、大きなどんぐりの木があったのだとか。
京都で発生した史上最大規模の火災(あの応仁の乱よりもひどかった)「天明の大火」は、この橋を渡った辺りから出火し、別名「団栗焼け」と言われています。
御所・二条城・京都所司代なども焼失し、京都の約8割以上が被災しました。
「京都大火」や「都焼け」と言うと、普通はこの「天明の大火」「団栗焼け」を指すそうです。
京都の大火と言えば
京都の火災というと、応仁の乱や禁門の変(どんどん焼け)が有名ですね。
またもっと時代を遡ると、太郎焼亡(平家政権時代の大火事で、愛宕山の太郎坊天狗の仕業とされた)と翌年の次郎焼亡(比叡山の次郎坊天狗の仕業とされた)もよく知られています。
当時は天狗が大火を引き起こすと考えられたのですね。
『陰陽師』の漫画に描かれていた内裏炎上も、忘れがたいです。
火事と言えば江戸ですが、京都も歴史の長い分、たくさんの大火に見舞われているのだと改めて感じました。
建仁寺までの道
団栗橋を直進し、グーグルマップの示す方向に歩いていくと、建仁寺を通り抜けろという指令。
ここも初めて通る道ですが、しっとりした風情もあり、なかなかいい感じ。
祇園花見小路に近いせいか、外国人観光客もたくさん歩いています。
後になって、ここが「宮川町」という、京都の五花街の1つなのだと知りました。
タクシーがひっきりなしに通るので危なくて(歩行者も多い)、写真を撮ることができなかったけれど、「宮川町」と知っていれば、1枚くらい写真を撮っていたかも。
ちょっと残念です。いつかまた絶対来よう。
建仁寺と安国寺恵瓊
グーグルマップの指示通り、建仁寺の境内を突っ切りました。
この建仁寺は、源頼朝の長男・2代鎌倉将軍の源頼家によって建立され、開山(初代住職)は臨済宗を日本にもたらした栄西です。
京都における臨済宗の拠点として建立され、京都五山第三位の寺格を誇る大寺院。
でも今日は、有名な建造物は敢えて見ないで通り過ぎます。
この時、地図をもっと拡大していたら、こんな面白いものを発見できたのに。
関ケ原の戦いの後で処刑された毛利家の外交僧・安国寺恵瓊(えけい)の首塚があったのでした。
関ケ原の戦いの前年、安国寺恵瓊は、安芸の安国寺から建仁寺に方丈を移築するなど、建仁寺の再興に尽力したのです。
彼の首塚があるのは、そのためなのでしょう。
残念ながら、安国寺恵瓊には気づかなかったけれど、さすがに栄西禅師には気づきました。
この石碑が目を引いたのです。「茶碑」と書かれています。
中国(南宋)から茶をもたらし、遣唐使廃止後廃れていた喫茶の風習を蘇らせたのが栄西禅師。
栄西から茶の種を譲り受けた高山寺の明恵上人が、宇治で茶の栽培を行い、これが宇治茶の始まりとなったのです。そう考えると、私たちがお茶を美味しく頂けるのも、栄西禅師あればこそ。
石碑の奥には茶畑が。「平成の茶苑」です。
先週静岡で見た、美しい茶畑も思い出されました。
その近くにあったのが、開山堂。
開山である栄西禅師の墓所になります。初めて見ました。残念ながら非公開。
栄西ばかりでなく、道元の記念碑も
その近くに、「道元禅師修行の遺跡」という碑もありました。
栄西の弟子・明全(みょうぜん)に師事し、彼と共に南宋に渡った道元の碑です。
明全は南宋で亡くなり、曹洞宗の禅を学んだ道元は、師の遺骨と共に建仁寺に戻りました。
余談ですが、この道元が日本で初めて建立した曹洞宗の寺院は、宇治の興聖寺(こうしょうじ)。
『京都人の秘かな愉しみ』の中で、雲水の清哲や師匠の老師がいる寺院として登場します。
平等院の対岸にはあまり行ったことがないので、いつか興聖寺にも行ってみたい。
琴坂と呼ばれる参道が、とても美しい寺院だそうです。
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