明智光秀の娘・たま輿入れの城
2019年2月17日(日)、京都市右京区にある愛宕神社に参拝した後、
NHK大河ドラマ『麒麟がくる』最終回で描かれる山崎の合戦の舞台を訪れました。
この日最後に訪れたのは、勝龍寺城(京都府長岡京市)です。
山崎の合戦での明智光秀本陣候補地の1つ、恵解山(いげのやま)古墳からも、歩いて近い場所でした。
城の名は、近くにある「勝竜寺」という古い寺に由来しています。
勝竜寺城は戦国時代には三好三人衆に属していましたが、織田信長に敗北。後に細川藤孝が城主となりました。
細川藤孝はこの城を改修し、二重の堀を造営。
そしてこの城に、明智光秀の娘・「たま」が、藤孝の嫡男・忠興の妻として輿入れしてきたのです。
上は管理棟の展示室で紹介されていた輿入図です。
勝竜寺城公園内にも、幸せそうな忠興・たま夫妻の銅像がありました。ここでたまは、2人の子も授かっています。
細川家は後に(明智光秀に助けられながら)丹後を平定し、宮津城に移りますが、勝竜寺城で過ごした新婚時代が、たま(後の細川ガラシャ)の一番幸せだった時期なのかもしれません。
本能寺の変さえなければ、彼女が夫や舅から冷たくされたり幽閉されたりすることもなく、ましてや父が「謀反人」とされて不幸な最期を遂げることもなかったのです。
彼女もキリシタンになっていなかったかもしれませんね。
明智光秀の決断は、多くの人の運命を狂わせたのでした。
軍師官兵衛の策略 勝竜寺城で明智軍の脱走続出!
本能寺の変の際、明智光秀軍は勝竜寺城を攻撃し、拠点としました。
しかし、以前この城の主だった細川藤孝は、光秀の再三にわたる援軍要請を断固拒み、出家してしまいます。
そして家督を忠興に譲って、田辺城(京都府舞鶴市)に隠居。
光秀の親友(盟友)だったはずなのに、光秀の天下は長くないことが予測できたのか、
或いは「親友(盟友)」と思っていたのは光秀だけで、細川藤孝にしてみると、かつての部下が上司になって、本当はあまり穏やかな気持ちではなかったかもしれませんね。
ともあれ、山崎の合戦で明智軍は敗北し、光秀ら明智軍はこの城に逃げ帰りました。
城を囲むのは羽柴秀吉軍。
しかし、軍師官兵衛こと黒田官兵衛の作戦で、秀吉軍は城を完全に包囲はせず、北門の警備は手薄にしました(下は勝竜寺城展示室の写真パネル)。
完全に包囲してしまうと、逃げ場を失った兵士たちは「窮鼠猫をかむ」状態で必死で戦う。それは秀吉軍にとっては面倒です。
逆に脱出口があると、皆、生き延びることを考える。
そして総大将の光秀も夜陰に紛れ、城を脱出。
家族の待つ坂本城へ落ち延びる途中、土民?に襲撃されて命を落とすのです。
かつて娘が幸せな新婚時代を過ごしたこの城で、最後の夜を過ごした光秀は、何を考えていたのでしょうか。
勝竜寺城の展示室で見た品々 『麒麟がくる紀行』で紹介されたあの瓦も!
私達が訪れたとき、管理棟2階の展示室では、勝竜寺城に関する資料が多数展示されていました。
最終回の『麒麟がくる紀行』で紹介された、勝竜寺城の瓦。
坂本城、本能寺と同じ型で作られているとは驚きです。
出土品の中には上の写真のように武器類もありますが、
食器類などもあって、当時の生活を偲ぶことができました。
写真展示も充実しています。
大河ドラマの余韻が残る今の時期なら、もっと展示が充実しているかも知れませんね。
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