明智光秀岐阜の旅2 恵那市観光協会バスツアーで行く光秀供養塔(龍護寺)と光秀産湯の井戸(落合砦)

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2019年3月30日(土)~31日(日)、明智光秀の生誕地を訪ねる旅に出ました。

訪れるのは岐阜県の恵那市と可児(かに)市。いずれもあまりなじみのない土地です。

最初の30日は、まず恵那市を訪れました。

明智光秀岐阜の旅1 恵那市観光協会バスツアーで行くお牧の方墓所と明知城(白鷹城)

2020年2月29日

大正ロマン館から龍護寺へ

今回のバスツアーで訪れる、恵那市の明智光秀ゆかりの地は、日本大正村の中にありました。

ここは宿場町で、大正時代に生糸産業の集積地として発展した町並みの名残を生かし、「日本大正村」がつくられたのです。

村のシンボルとなっているのが、この大正ロマン館。

今回は中に入りませんでしたが、左右にある銅像が気になりました。

後で調べると、左側の立派な力士が日本大正村初代議長の春日野清隆氏(横綱栃錦)、右側の女性が、初代村長の高峰三枝子さんなのだとか。

旧三宅家から大正ロマン館、そしてこの辺りを支配した旗本遠山氏の陣屋などを過ぎると、再び明智光秀ゆかりの地が現れます。

それが龍護寺でした。

龍護寺の光秀供養塔

龍護寺は6,500石の旗本遠山氏累代の菩提寺です。

かの遠山の金さんも、この家から出ていました。

明智光秀も、この系図によると遠山氏と関係ありそうですね。でも歴史家の先生方からは、疑問の声が出ています。遠山明智氏は先祖が藤原氏だから、土岐源氏や清和源氏の流れを引く土岐明智氏とは無関係だということです。

その境内に、明智光秀の供養塔がありました。

この中に「南無阿弥陀仏」と書かれた石塔があり、途中で斜めに割れているらしいのですが、残念ながら姿を見ることはできませんでした。扉の中が良く見えません。

寺宝として、明智光秀所有の直垂の布が縫い込まれた袈裟があるそうです。いつ公開されるかな?

光秀産湯の井戸と落合砦

龍護寺から再びバスに乗り、落合砦へ向かいました。

落合砦は、明知城と対岸の台地にあります。出丸、本丸、三の曲輪(くるわ)跡が残っていますが、私たちが訪れたのは、駐車場からも近い三の曲輪跡。

ここには、明智光秀産湯の井戸があるのです。

1526年3月10日にここで生まれたと書かれていますが、光秀の生涯は謎だらけ。生年月日も、どこで生まれたかもはっきりしません。光秀産湯の井戸は、岐阜県だけでも5か所あるのだとか。

立派な井戸です。光秀産湯の井戸でなくても、城の人々の生活にとって欠かせない、大切な井戸だったのでしょう。16mの深さがあるそうです。

何かの慰霊碑でしょうか。井戸の近くにありました。

この辺りは「千畳敷公園」として整備されており、明智町が町制施行100年を記念して埋設したタイムカプセルもありました。平成元年に埋設したようです。開けるのはまだ先かな?

落合砦から見た景色

こちらは出丸(二の曲輪)跡。

弘法大師の立派な像がありました。

ここは「パノラマ広場」と名付けられているように、とても眺めのいい場所でした。

明知城は、あの辺りかな?

室町幕府が滅び、信長が活躍する天正年間には、この落合砦では遠山家一族の串原経景が砦を守っていたのだとか。

この周辺では織田勢と武田勢が戦っており(恵那市岩村城の女城主・おつやの方の悲劇が有名)、落合砦も戦場になっていたかもしれませんね。

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