秋の赤穂をレンタサイクルで巡る3 坂越のもう1つの謎・小倉御前の墓

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2022年10月20日(木)、兵庫県赤穂市を訪れました。早朝の坂越(さこし)駅でレンタサイクルを借り、美しい海や大避(おおさけ)神社などを見て回りました。

秋の赤穂をレンタサイクルで巡る2 聖徳太子の側近・秦河勝を祀る大避神社

2022年11月20日

秋の赤穂をレンタサイクルで巡る1 朝の播州赤穂駅から坂越湾へ

2022年11月19日

路地の奥にひっそりとある五輪塔

大避神社と主祭神の渡来人・秦河勝(はたのかわかつ)のいくつもの謎に圧倒された後は、坂越の案内板で初めて見た「小倉御前」という人物の墓を訪ねました。

「御前」とつくから、静御前や巴御前のような、源平合戦の時代の美女を連想していたのですが、なんと天皇の皇子でした。

南北朝が合体した時の、南朝方最後の天皇・後亀山天皇の皇子・小倉宮(おぐらのみや)のことだそうです。

その皇子の墓は、

このようなすごい路地裏に(なかなか面白い道でしたが)

ひっそりと建つ五輪塔でした。多分1つが皇子で、他のは家臣のだと思うのですが、よくわかりません。

それにしても、皇族の墓ならもう少し立派だと思うのですが、どうしてこんな墓なのかな?

謎の皇族・小倉御前

現地の案内板によると、京都嵯峨の小倉山に住んでいた小倉宮(後亀山天皇の皇子)は、将軍家との争いのため、坂越に逃れて隠れ住んでいました。

しかし争いに負けたことを知った小倉宮は、坂越浦に身を投げて亡くなったそうです。その場所を「御前岩」と呼び、大避神社の祭り(坂越の船祭り)の日にお供えをして供養をしているそうです。

ここでいくつもの疑問が出てきました。

将軍家って誰? どうして名前を書かないのかな?? 何を争っていて、争いに負けたというのは具体的にどうなったんだろう??? 死ぬほど辛いことだった???? わからないことだらけです。

後亀山天皇は、室町幕府3代将軍・足利義満の説得によって三種の神器をもって京都に帰還し、北朝の天皇に渡しました。その時足利義満は、今後は南朝北朝から交互に天皇を出すことを提案。

しかし義満が亡くなると、4代将軍義持や北朝方はその約束を反故にしました。

皇位を望んでいた小倉宮はこれに反発したようですが、「小倉宮」に該当しそうな人は複数いて、坂越に逃れたという記録も見つけることはできませんでした。

坂越の墓が「宮」「親王」「王」という用語を使わず「御前」という名で墓を伝えたのも、何か事情がありそうですが、坂越の人々が南朝の皇子に同情的だったのはよくわかりました。

よく考えれば、大避神社の主祭神・秦河勝も政治的敗者でした。船祭りの日に、非業の最期を遂げた皇子にお供えをするのは、「諸人に憑き祟りて奇瑞(きずい)をなす」と伝わる秦河勝の、「大荒(たいこう)大明神」と呼ばれた最初の姿と似ています。

坂越という町は敗者に優しく、彼らの恨みや祟りを鎮め、海上安全や大漁、商売繁盛などを祈願していたのかな。

小倉御前については、赤穂民報HPに、赤松政則に吉野で殺害された(そして三種の神器の1つである勾玉を奪われた)良泰親王であるという話が掲載されています(詳しくはこちらをご覧ください)。

こちらも大避神社同様、謎が尽きないですね。坂越の歴史ミステリー、恐るべしです。

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