『どうする家康』ゆかりの長久手市を歩く2  長久手で散った秀吉軍の武将たち

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2022年5月3日(火)、小牧・長久手の戦いの古戦場(長久手古戦場公園)を訪れました。

小牧・長久手の戦いとは、徳川家康と豊臣秀吉が直接対決した、最初で最後の戦いです。

この戦いでは小牧市・犬山市・長久手市の他、全国でこれに連動した戦いが行われていますが、今回私たちは、長久手市でのゆかりの地を訪れました。

長久手古戦場公園にある池田恒興父子最期の地

長久手古戦場公園で、長久手市郷土資料室を見学し、電動アシスト付き自転車もレンタルした私たちは

『どうする家康』ゆかりの長久手市を歩く1  長久手古戦場公園と長久手市郷土資料室

2023年7月25日

さっそく戦いの痕跡を見に行くことにしました。

この古戦場公園にも、その痕跡はありました。公園のほぼ中央にある勝入塚(しょうにゅうづか)。

信長の乳兄弟(信長の乳母の子)で、清須会議にも出席した織田家の重臣・池田恒興(つねおき)の戦死した場所です(享年49)。

恒興は秀吉方として参戦しましたが、家康の本拠地三河国に進撃する途中で徳川軍と衝突し、討たれてしまいました。彼は4年前に剃髪し、「勝入斎(しょうにゅうさい)」と名乗っていたのにちなみ、塚の名前となりました。

池田恒興の長男・元助(もとすけ)も、このすぐそばで討ち死にしました。

古戦場公園の南端にある、庄九郎塚がその場所と伝わっています。庄九郎は元助の幼名で、討ち死にした時はまだ20代前半だったそうです。

池田家と徳川家の不思議な縁

この戦いの後池田家の家督を継承したのが、次男の池田輝政(てるまさ)でした。徳川家康のことは、父や兄の仇と思っていたことでしょうが、戦いの10年後、秀吉の仲介で、池田輝政は徳川家康の次女・督姫(とくひめ)と再婚しています。

ちなみに督姫の母は、『どうする家康』で「できる秘書」「ハンサム」と評判の、築山殿の公認側室第1号・西郡局(にしのこおりのつぼね)=お葉(よう)です。信長の死後、徳川と北条氏が同盟を結ぶにあたり、北条氏直と政略結婚するのですが、北条氏滅亡で氏直が高野山追放となり、その後亡くなると家康の元に戻っていました。

督姫と結婚し、徳川家康の婿となった池田輝政は、関ケ原の戦いの前哨戦で徳川方として岐阜城攻略に活躍し、その功で初代姫路藩主となり、姫路城を大々的に改修。今、私たちが見ている世界遺産の姫路城は、彼の尽力で今の姿になったのですね(写真の姫路城は、2023年4月撮影)。

外様大名でありながら徳川家と縁組したおかげで、池田家は後に岡山藩主として繁栄していきます。

池田恒興の婿・森長可は森蘭丸の兄

古戦場公園から西の住宅街の中には、

武蔵塚という塚がありました。武蔵塚というのは、池田恒興の娘・せんの夫である森長可(ながよし)が討ち死にした場所(享年27)。

信長の寵臣である森成利(なりとし 森蘭丸)の兄と言った方が、イメージしやすいかもしれません。

井伊直政の軍と衝突し、果敢に戦った森長可(書状で「武蔵守」と自称)の別名「鬼武蔵」から、「武蔵塚」と呼ばれているそうです。

彼らの最期は、大河ドラマではどのように描かれるのでしょうか。

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