『らんまん』主人公モデル牧野富太郎ゆかりの地・渋谷  妻が待合茶屋を経営していた頃の渋谷とは

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壽衛子が経営していた待合茶屋とは

NHK連続テレビ小説『らんまん』もそろそろ大詰め。

主人公のモデルとなった高知県出身の植物学者・牧野富太郎は、ドラマに登場する槙野万太郎以上にスケールの大きな借金を抱えながら、植物研究に邁進していました。富太郎が東京帝国大学理科大学の講師(最初は助手だった)を辞職したのは、77歳の時です。

研究費(書籍や研究・採集などに必要な道具の購入など)を湯水のように使う富太郎を支えるため、彼より11歳年下だった妻の壽衛子(すえこ)は、待合茶屋(まちあいちゃや)の経営に乗り出しました。

待合茶屋とは、待ち合わせや会合のための場所を提供する貸席業。役人や実業家らが利用する高級料亭のようなもので、密談の場ともなりました。

芸妓との飲食・遊興目的で使われることも多く(料理は仕出し屋などから取り寄せる)、寝具が備わっているため芸妓たちと客との売春の場ともなりました。『らんまん』のドラマで、槙野一家の避難場所として使われているのも、寝具があるから可能なのでしょう。

壽衛子は3円の資金で渋谷の荒木山(渋谷区円山町 同名の飲食店があるようですが、その辺りでしょうか)で小さな家を借り

実家の別姓をとって「いまむら」という待合茶屋を始めました。道玄坂の上にあった荒木山(現・円山町)は、江戸時代には宿場町、明治になると花街としてもにぎわっていたのだとか。

元芸者の母を持ち、菓子屋の娘として育った壽衛子にはビジネスの才があり、「いまむら」は渋谷で二流の待合茶屋として広く知られるようになったと、後に自伝で牧野富太郎は記しています。牧野家の財政も、ようやくほっと一息付けたようです。

渋谷の魅力  美味しいお茶と交通の要衝

ドラマ『らんまん』でも紹介されていましたが、渋谷には佐賀藩主の鍋島家が紀州徳川家から譲渡された広大な土地があり、最後の藩主となった鍋島直大(なおひろ)が士族授産のため狭山茶を移植して茶園を開き、「松濤(しょうとう)」という銘柄で販売していました。

高級茶として広く知られていましたが、東海道線の開通で東京にも静岡茶が流入すると松濤茶は劣勢となり、明治末には茶園は廃止されていました。その後牧場となり、戦後には「鍋島松濤公園」として憩いの場となっています。

『らんまん』の時代設定はわかりませんが、寿恵子が店を開いたころには、松濤の茶畑は廃止されていたかもしれません。

一方、日露戦争後の1909(明治42)年、陸軍は代々木に練兵場を建設し、陸軍の演習場として使われました。演習がない時には、一般にも公開されていたようです。

この練兵場はかなり広大なエリアを占めており、今の代々木公園や国立代々木競技場、

NHK放送センターなども含まれています。広大な演習場ができれば交通網も発達し、東京市電や玉川電気鉄道(後の東急)が次々と渋谷に乗り入れてきました。当時はまだ東京市ではなく、「豊多摩(とよたま)郡渋谷町」でしたが、発展の可能性を秘めた魅力的な町だったのでしょう。

ちなみにこの「代々木練兵場」は、終戦後アメリカ軍に接収されて「ワシントンハイツ」となり、やがて日本に返還されて東京オリンピック(1964年)の主要会場や選手村となります。こんな歴史があったとは。

待合茶屋を手放す壽衛子

順調に進んでいた壽衛子の「いまむら」でしたが、店の評判が高くなるにつれ、富太郎には「大学講師の妻が怪しからん商売をしている」と非難の嵐。

待合茶屋は風俗業で売春の場ともなっているため、権威を重んじる東京帝国大学の教授たちからすれば許しがたいことだったのでしょう。一方大学を出ておらず、教授と個人的な師弟関係もなく、権威主義的発想もない富太郎には、全く問題ないことなのですが。

やがてたちの良くない客がついたこともあり、壽衛子は「いまむら」の経営から手を引きます。そして関東大震災後に大泉に移転するわけですが、ここ一番の決断力は、現在の企業トップにも負けないところがあるなと思いました。

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