京都防衛上の重要地点
2023年9月24日(日)、京阪電車で京都府宇治市を訪れました。
京阪宇治駅を出ると、まもなく宇治川と宇治橋が見えてきます。今は川の流れも穏やかで、水深もそんなに深くなさそうに思えるのですが、
1964年に天ケ瀬ダムが完成するまでは、もっと水量が多かったそうです。
宇治橋は、大化の改新(645年)の翌年に架けられたとも言われる「日本三古橋」の1つで、宇治川と宇治橋は京都防衛上の要衝となり、たびたび戦場となりました。
その中でも「宇治川の戦い」と言えば、1184年の木曽義仲と源義経の戦いが有名でしょうか。
京都を支配していた木曽義仲は、京都を防衛するため瀬田の唐橋に500余騎、宇治川に300余騎を配置して守らせますが、源範頼は3万騎で瀬田を、義経は2万5千騎で宇治川を攻撃します。桁違いの兵力で、勝敗は戦う前から明らか。義仲軍は平氏との戦い(水島の戦い)に敗北し、後白河法皇とも対立して脱落者が増えてしまったそうです。
義経軍の佐々木高綱が、源頼朝から与えられた名馬「生唼(いけづき)」に騎乗し、同じく頼朝から与えられた名馬「磨墨(するすみ)」に乗る梶原景季(かげすえ 梶原景時の嫡男)と「宇治川の先陣争い」をしたのが有名ですね。
迫力の橋合戦と源頼政の最期
でも個人的には、それに先立つ1180年、以仁王(もちひとおう)や源頼政が決起して平氏軍と戦う「橋合戦」がとても印象に残っています。
劣勢の以仁王軍は敵を食い止めるため、宇治橋の橋板を落としたので、平氏軍が200人近くも川に落ちて流されてしまいます。
また以仁王軍の中には、不安定な橋の上で超人的な活躍をする武士や僧兵がいたのですが、平氏軍は足利忠綱の的確な指示て川を渡ることに成功し、以仁王軍に襲いかかりました。
77歳の源頼政は、以仁王を逃がすために平等院に籠って抵抗しますが、多勢に無勢。
子供たちが次々に討ち死にし、自らも左膝を負傷した頼政は、平等院の一画で自害しました。
その場所は「扇の芝」と呼ばれる、扇形の芝。
軍扇に書いた辞世の句「埋木の花咲く事もなかりしに 身のなる果はあはれなりける」(埋れ木のような我が身は、花の咲くことなどあるはずがなかったのに、あえて行動を起こし、このような結果になってしまったことが悲しい)を、顕彰した石碑かな?
頼政の首は、家臣によって宇治川深くに沈められました。脱出した以仁王も平氏軍に追いつかれ、討たれてしまいます。
頼政の墓は、平等院内の塔頭(たっちゅう 大寺院境内の中にある小さな寺院や庵)・最勝院にありました。
平等院は鳳凰堂がとても有名なのですが、頼政の墓もとても立派で驚きました。
承久の乱では北条義時も戦った!
そして昨年放映された大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも、宇治川の合戦シーンは放映されていました。
それは最終回で描かれた承久の乱(1221年)。後鳥羽上皇軍は宇治川で幕府軍を食い止めるべく宇治橋を落とし、雨のように矢を射かけて必死で防戦。
豪雨により川の水嵩も増え、北条泰時(義時の嫡男)を中心とする幕府軍は攻めあぐねますが、佐々木信綱(「宇治川の先陣争い」に勝利した佐々木高綱の甥)を先頭に、強引に敵前渡河して敵前突破。上皇軍は潰走し、勝敗は決しました。ドラマでは平盛綱(幼名は鶴丸)の活躍(生きててよかった!)が印象的ですが。
ちなみに承久の乱では、泰時が宇治川を、義時の弟・時房は瀬田川を攻撃しています。
やはりこの2か所が、源平合戦でも承久の乱でも、京都の防衛線だったのですね。
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