三条大橋~木屋町界隈 実は血なまぐさい歴史の舞台 瑞泉寺と角倉了以

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2019年9月29日(日)、明智光秀ゆかりの、滋賀県大津市坂本地区にある西教寺を訪れました。

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その帰り、京阪で京都三条に出ました。

三条大橋や木屋町界隈には、多くの史跡がありますが、今回は瑞泉寺をご紹介しましょう。

豊臣秀次の妻子ゆかりの瑞泉寺

瑞泉寺は、三条大橋にほど近い木屋町通りに面する小さな寺院。

「豊臣秀次公之墓」という石碑がなければ、多分通り過ぎていたかもしれません。

浄土宗西山禅林寺派の寺院だそうです。

こちらが本堂。

寺院の案内板によると、豊臣秀吉の甥である豊臣秀次一族の菩提を弔うために、建立された寺なのだとか。

昔は「殺生関白」と呼ばれた豊臣秀次は、どうしようもない人間で、切腹させられたのも自業自得なのかなと思っていたのですが、最近は(大河ドラマ『真田丸』でもそうですが)、頑張ろうとしていたけれど、秀吉とのコミュニケーション不足で進退を誤ったように描かれることも多いです。

でも、何の罪もないのに連座(巻き添え)で処刑された秀次の妻子は気の毒すぎ!

そんな秀次と、その妻子を供養しているのがこの一画。

中央が秀次、左右が妻子たち39人、家臣10人の供養塔です。

供養塔は妻子、家臣ごとに建てられ、一人一人の享年や処刑順(誰が記録を取っていたのだろうと、ある意味恐ろしいです)が記載されていました。

まだ1歳にもなっていない乳児、嫁いで間もない姫などもおかまいなしに、斬首されました。

妻の数が多すぎる!とも思いましたが、これは秀吉の後継者となる予定だった秀次に、各方面から縁談が舞い込んだこともあるでしょう。

どうやらこちらの住職は、最上義光の娘・駒姫がお気に入りみたいです。

彼女は東北からの長旅で京都に着いたばかり。まだ実質的に夫婦になっていないのに、処刑されてしまったのです。最上義光が、関ケ原の戦いで東軍についたのも当然でしょう。

角倉了以と瑞泉寺

ここは昔、三条河原の中洲で、秀次妻子の処刑場だった場所。

妻子らが処刑された場所には、遺体を埋めた塚や石塔が建てられ、「畜生塚」「殺生塚」と呼ばれましたが、やがて洪水で塚も荒れ、いつしか忘れ去られたようです。

やがて江戸時代となり、1611年に京都の豪商・角倉了以(すみのくらりょうい)が、京都の中心部と伏見の物流を円滑に進めるべく、高瀬川の開削工事を行っていたところ、偶然発見された石に「秀次悪逆塚」と刻まれていたのです。

角倉了以は、その石塔の「秀次悪逆」の4文字を削り、その上に六角形の無縁塔を建てました。

それが先ほど紹介した供養塔。かつてこの石の中に、秀次の首が入れられていたのだとか。

角倉了以は、弟が秀次に仕えていたという縁もあり、幕府の許可を得て寺院を建立。

秀次の戒名から「瑞泉寺」と名付けたそうです。

境内には、秀次やその妻子についての多くの資料が掲示され、彼らのの悲劇を伝えていました。

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