権力者・藤原道長の終活大作戦
今年のNHK大河ドラマ『光る君へ』の主人公は、『源氏物語』の作者として知られる紫式部と、ドラマの世界で彼女と不思議な運命で結ばれる藤原道長。
紫式部の晩年は不明ですが、藤原道長の方は、当時の最高権力者なので晩年もしっかり記録されています。
彼は自分の孫(長女の彰子が産んだ皇子)が後一条天皇として即位すると、摂政として天皇大権を代行。三女の威子(20歳)を天皇(11歳)の中宮としました。有名な「この世をば」の和歌は、威子の立后を祝う宴で、酔った道長が軽い気持ちでつい詠んだ歌でしょう(3人の娘が后になって、羽目を外した父親の自慢の歌)。でも道長の晩年は、病に苦しむ日々でもありました。
摂政の職も嫡男の頼通(よりみち)に譲った道長の最終目標は、極楽に行くこと=極楽往生。紫式部も願った、当時の貴族の大目標です。紫式部レベルだと出家することくらいしかできませんが、道長ほどの権力を持つと、大寺院を建立することができました。この世に極楽浄土を現出させ、極楽のイメージを思い描いて臨終に備えるのです。
そのために彼は、自邸(正妻・源倫子の土御門第)の東に、法成寺(ほうじょうじ)という寺院を、10年かけて建立。
中心は九体の阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂で、彼はこの阿弥陀堂で臨終を迎えました。念仏を口ずさみ、九体の阿弥陀如来の手と自分の手を糸で結び、僧たちの読経の中、極楽往生を願いながら亡くなったとか。
この法成寺はとても荘厳華麗な大寺院で(ざっくり東京ドームの1.3倍)、嫡男の頼通はこれを手本に、宇治の平等院を建てました。
法成寺は「御堂(みどう)」と呼ばれ、それを建てた道長は、後に「御堂関白」と呼ばれています(実際には関白になっていませんが)。
臨終の地は残っているのに、墓は不明
道長の臨終の地・法成寺は現在跡形もありませんが、跡地を示す石碑は建てられています。
場所は京都御所の東、紫式部邸跡と伝わる廬山寺の南。平安京エリアの外だったので、大寺院を建立する土地があったのですね。道長の自邸とは、平安京の東端である東京極大路を挟んで隣り合っていました。
京都府立鴨沂(おうき)高等学校のグラウンドに面して、「これより東北 法成寺址」と刻まれた石碑や
解説板が立っていました。紫色の地図が法成寺のエリアですが、かなり広大なのがよくわかります。
このように道長臨終の地については、跡地もちゃんと残っているのですが、墓についてはどこにあるのかよくわかりません。
近年発掘された、京都府宇治市木幡(こわた)の浄妙寺(藤原北家出身者の遺骨埋納地に建立された寺院)跡
に近い、宇治陵第32号墳を道長の墓と推定する説もあるようですね。詳しくはこちらをご覧ください。
近くには、彼の姉や娘たちなど、皇室に入った女性たちの墓(宇治陵第1号墳)もあります。道長はその周辺で、今も静かに永遠の眠りについているのでしょう。
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