新宿区に住んでいた文豪・夏目漱石  漱石山房記念館と念願の猫の墓参り

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無料エリアでも十分楽しめる漱石山房記念館

2025年9月21日(日)、私たちの東京旅行も今日が最終日。この日は長女に誘われて、新宿歌舞伎町のTOHO シネマズで朝一番の映画を見て、「新宿区小泉八雲記念公園」(小泉八雲が晩年住んだ、西大久保の家の跡地)を訪れ、新大久保の裏路地にあるレストラン「DAOL」で昼食を取った後

新宿区小泉八雲記念公園と、新大久保の裏路地にあるレストランDAOL

2025年11月17日

長女の提案で、もう1人の文豪ゆかりの地へ向かいました。それが、小泉八雲の後任として東京帝国大学で英文科講師を務めることとなった夏目漱石が晩年過ごした「漱石山房(そうせきさんぼう)」。現在は「新宿区立漱石山房記念館」になっています。

レストラン「DAOL」からは40分弱と、少々遠かった(新宿区は広い!)。

「夏目坂通り」(坂の途中に、漱石の生家・夏目家があった)への道標もあったのですが、今回はそちらを通らず

記念館の前を通る「漱石山房通り」を歩きました。

やっと到着した漱石山房記念館。有料エリア(観覧料300円)と無料エリアがあり、

今回は1階の無料エリアにお邪魔しました。

多分1階の目玉の1つは「CAFE SOSEKI カフェ・ソウセキ」かも知れません。

『吾輩は猫である』の主人公は、「黄を含める淡灰色に漆のごとき斑入りの皮膚」と書かれていますが(キジトラ?)主人公のモデルになった漱石の猫は、鏡子夫人によると「全身黒ずんだ灰色の中に虎斑(とらぶち)があった」そう。夏目家3代目の猫は黒猫で、漱石が絵に描いています。これは3代目?

名物の「空也もなか」(『吾輩は猫である』では「空也餅」として登場)は今回我慢して、せっかく来たのだから、

1階の導入展示部分で、漱石についてのパネル紹介や映像資料を見たりしました。新宿区って、小泉八雲も晩年を過ごしたし、文化人には事欠かないのかも。

漱石と八雲 不思議な因縁

記念館に隣接して、「新宿区立漱石公園」がありました。漱石が晩年過ごした「漱石山房」は、1945年の空襲で焼けてしまい、その敷地が公園や記念館(以前は区営住宅)になっています。

元は診療室を兼ねた医者の家らしく、かなり広い敷地。漱石には、門下生や朝日新聞の関係者など訪問者が多かったのですが、この広い家なら来客が多くても大丈夫そう。

余談ですが、夏目漱石は人件費削減のため解雇された小泉八雲の後任として、東京帝国大学の英文学講師となりますが、学生たちに人気のあった八雲とは全然違う硬い講義はかなり不評。兼任していた第一高等学校で受け持っていた藤村操が自殺した原因が、漱石の叱責という噂も流れて彼は精神衰弱に陥り、その治療の一環として『吾輩は猫である』を執筆したのでした。これが好評を博したため、彼は作家として生きることを決意。2年後に一切の教職を辞して、朝日新聞の専属作家として入社したのでした。小泉八雲がいなかったら、国民作家の夏目漱石は生まれなかった。昨日も、八雲の墓参りに行ったら偶然漱石の墓も見たし。不思議なご縁です。

雑司ヶ谷霊園で小泉八雲夫妻の墓参り  小泉八雲の「後輩」も眠っていた

2025年11月16日

念願の猫の墓参り

昨日雑司ヶ谷霊園では見当たらなかった「猫の墓」(猫塚)は、漱石公園にありました。

『吾輩は猫である』のモデルになった猫は、1908年9月13日に亡くなり、漱石の書斎の裏の桜の木の下に埋められました。13回忌の際には供養塔が建てられましたが、空襲で焼失。その残欠を利用して再興されたのが、現在の「猫の墓」だとか。立派な石塔にびっくり! やっぱり漱石は、猫が好きだったのですね。好感度アップ。

この公園にも、猫のモチーフが路面にありました。可愛い。

今回存在を初めて知った漱石山房記念館。今度は有料展示エリアも、ぜひ見てみたいなと思いました。

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