ディープな京都寺社巡り1 白峯神宮の主祭神は、スポーツとは縁遠い 

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『京都異界紀行』筆頭に紹介された白峯神宮

先日、西川照子著『京都異界紀行』を読む機会がありました。

観光用の華やかな姿をしている京都の社寺も、一皮むけば、なかなか面白く、かつ怖ろしい。

一番最初に紹介されていた白峯神宮に先月行ってきたので、ご紹介します。

公式サイトでは「スポーツの守護神・武道上達の神・上昇気運の神」と紹介されていますが、古くから京都にあった神社ではなく、明治になって建立されたもの。

ご祭神は、奈良時代の「恵美押勝の乱」に巻き込まれて淡路に流された淳仁天皇と、平安時代末期の「保元の乱」に敗れて讃岐に流された崇徳天皇(「崇徳上皇」が一般的?)です。

崇徳上皇の怨霊パワーはすさまじいとの伝説があり(日本三大怨霊の1人!)、その怨霊を慰め、幕末以来の未曾有の国難に対し、そのパワーで日本を守って貰うため、この神宮は造られたようでした。

印象に残る崇徳上皇

さて、崇徳上皇と言えば、(視聴率と熱心なファン数は比例しない)NHK大河ドラマ『平清盛』で井植新さんが熱演されていたことを覚えておられる方も多いでしょう。

彼の両親と祖父の関係を知ったとき、『華麗なる一族』の平安時代版?!と驚いた記憶があります(もっとひどいかも)。

出生の秘密のことで父?の鳥羽法皇に疎まれ、何一つ、思うままにならない一生だった彼ですが、そのことについては神宮ではほとんど触れられず、百人一首や落語で親しまれた和歌が脚光を浴びていました。

「背をはやみ」の歌は確かにイメージの湧きやすい、いい恋の歌ですね。

ところがそれに比べると、淳仁天皇は全く影が薄い! 多分現役高校生の日本史選択者に話を聞いても、知名度抜群の崇徳上皇に比べ、淳仁天皇は覚えていないのではないかな?

淳仁天皇とは

出生の秘密があり、弟と争い、気の毒な生涯を送り、歌人として優れ、死後は魔道に墜ちて怨霊になったという、ドラマチックな崇徳上皇と比べると、気の毒なのが淳仁天皇。

天武天皇の孫で、『日本書紀』編纂者舎人親王の七男ですが、3歳で父を亡くし、母も藤原氏ではないため、目立たない存在でした。

しかし聖武天皇の死後、光明皇太后の後ろ盾で実権を握った藤原仲麻呂は彼に目をつけ、亡き長男の妻と結婚させ、私邸に住まわせるなど結びつきを強めます。

聖武天皇の後に即位した孝謙天皇(女帝)は一生独身を義務づけられており、子供の誕生は望めません。

自分と関係の深い天皇を即位させ、次の天皇にも(長男の未亡人との間の子供でなくても)影響力を及ぼせると思ったのでしょうか。

しかし、位を譲った孝謙上皇が弓削道鏡を寵愛し、それを天皇が諫めると上皇が激怒!

孝謙上皇と弓削道鏡、淳仁天皇と藤原仲麻呂(当時は恵美押勝と改名)の間で対立が起こり、恵美押勝は挙兵するも敗死。

天皇はこの「恵美押勝の乱」には加わらなかったものの、恵美押勝と関係が深かったため淡路に流されたのです。そのため「淡路廃帝」と呼ばれました。

そして逃亡を企て、暗殺されたのだとか(怖)。

そんなひどいことをされたのに、怨霊にもならず、ひっそりと祀られています。穏やかな人柄だったのかな。

淳仁天皇にちなむポスターを1枚、境内で見つけることができてよかったです。

保元の乱 源氏の悲劇を思い出させる伴緒社

崇徳上皇や保元の乱と言えば、避けて通れないのが、源氏一族の悲劇です。

保元の乱は身内同士が敵味方に分かれて戦い、武家の場合、敗者は勝者の身内によって処刑されることとなりました。

平清盛も、叔父の忠正を処刑しましたが、もっと悲惨なのは源義朝。

父と弟たちを処刑せねばならなかったのです。

白峯神宮境内には、伴緒社(とものおしゃ)があり、処刑された源為義(義朝の父)や為朝(義朝の弟)が祀られていました。祭壇にあるのは、為朝にちなむ弓かな?

武道の神とされていますが、敗者鎮魂のための社のように思えてなりません。

伴緒社についても、HPに彼らの最期のことは書かれていません。血なまぐさい話はいつしか忘れられ、純粋に「武道の守り神」になっているようでした。

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