長野県とは別の県だった松本市 今でも存在感抜群!
現在日本の都道府県は47ですが、明治の廃藩置県から色々変遷があり、統合された県がありました。
実は松本市は、1871年から1876年まで存在していた筑摩(ちくま)県の県庁所在地だったのです。
現在、長野県の県庁所在地は長野市ですが、松本市の存在感も侮れません。
JR松本駅のとても味わいのある到着アナウンス(「まつもとぉ~」は、どうか無くさないでほしい!)や
上高地や美ケ原への玄関口としても有名ですが、善光寺の門前町として発展した長野市にはない「国宝松本城」がある!というのも大きなポイントですね。
国宝松本城と家康家臣との深き縁
別名を深志(ふかし)城ともいう松本城は、戦国時代初期に信濃守護であった小笠原氏によって築かれ、その後武田、木曽、上杉、小笠原と城主は次々変わりました。
1590年に秀吉が小田原攻めで北条氏を滅ぼし、徳川家康が東海地方から関東に移ると、家康に従っていた小笠原秀政(正室は家康の長男・信康と信長の長女・徳姫との間に生まれた登久姫)が松本から下総の古河に移ります。
その後に松本城主となったのが、『どうする家康』で松重豊さんが演じておられる石川数正でした。
石川数正は、信長の死後権力を握った羽柴秀吉と家康が激突した小牧長久手の戦い後、徳川家家臣団の中で秀吉との外交を担当し、秀吉との和睦を重視する政策を主張するも、他の家臣たちや家康に受け入れられずに孤立してしまい、家族ともども秀吉のもとに出奔した人物。
徳川家にとっては、軍事機密を知り尽くしている重臣・石川数正の出奔(裏切り)は大事件であり、これを機に、軍の編成・維持管理・作戦運用などの軍制を武田流に改めています。
その石川数正は秀吉の家臣として吉輝と改名し、秀吉より信濃国松本藩10万石の藩主に。彼の死後はその子康長が城郭や城下町の整備を行いました。
江戸幕府初期の代官として大きな権力を有した大久保長安(武田家旧臣)死去後、彼の不正が次々と明るみに出る中で(彼の7人の子供は全て切腹)、彼と共謀していたとして、石川康長は領地を没収されてしまいます。その後は小笠原秀政が再び入城しました。
石川数正にせよ小笠原秀政にせよ、徳川家康ゆかりの人物が城主だったというのも、何か奇遇ですね。
松本城内部見学
松本城を見学したのは、2020年7月。黒漆を塗った外壁が印象的ですが、松本城の別名は「烏城」ではありません(詳しくはこちらをご覧ください)。
コロナ禍でも人気は高く、
朝一番に入城したい人々の行列ができていました。
写真からもわかるように、典型的な平城。だから松本城公園から天守閣までアップダウンもなく、とてもありがたかったです。現存12天守の中では唯一の平城だそう。
天守閣1階には武者走りがあり
石落としや銃眼(狭間)もありました。
2階には鉄砲類の展示。加藤清正軍が用いた馬上筒という短筒もありました。大河ドラマ『真田丸』では、真田信繁(幸村)も大坂夏の陣で使用。
鉄砲部品(銃のからくり)の展示です。
他のお城と同様、松本城の階段も急なのですが(特に4階)、5階と6階の間には踊り場もありました。
最上階6階です。見落としてしまいましたが、梁の上には、二十六夜神(月の神)が祀られているそうです。毎月26日に3石3斗3升3合3尺(約500g)の餅をついて祀り、それを藩士全員に分け与えれば城は安泰というお告げを守っていたため、松本城天守閣は多くの危難を乗り越えて今日に至ったのだとか。
最上階からの眺めです。晴れていたら、アルプスの山々も見えたかな。
お手付きした側室の孫が建てた美しい月見櫓
ここまでは戦争を想定し、江戸時代初期に建造された部分ですが、
平和な時代に築かれた月見櫓は、全く戦いに対する備えがありません。
3代将軍家光が、上洛の帰途に善光寺に参拝し、松本城にも立ち寄るという予定が組まれたため、当時の藩主・松平忠直が月見櫓を建てました。彼は家康と築山殿の侍女・お万との間に生まれた結城秀康(「お手付き」で誕生したため秀吉の人質となり、結城家に養子に行く)の三男。
家光の松本城訪問は途中の落石等で中止になりましたが、考えてみると、松本城は家康ゆかりの人々が受け継いできたのですね。
夏にはお堀に蓮や水連が咲き、
なかなか美しい眺めでした。
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