『どうする家康』ゆかりの宇治田原町  「神君伊賀越え」の舞台・山口城跡へ

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2022年9月3日(土)、徳川家康の人生でも特に大きなピンチとされる「神君三大危機」の1つ、「神君伊賀越え」ルート上にある京都府宇治田原町(うじたわらちょう)の山口城跡を訪れました。

山口城跡へのアクセス まずは近鉄京田辺駅へ!

今回訪れる宇治田原町には、鉄道が走っていません。

公共交通機関で訪れる場合は、JR京田辺駅や近鉄新田辺駅から、京都京阪バスに乗る必要がありました。

近鉄京田辺駅へ行ってみると、駅前がなかなか面白い!

このシャッターも

この銅像も

全てこの人、一休さんにちなんだものばかり! しかもなんとなく、アニメの一休さんをほうふつとさせます。

実はこの京田辺市には、一休さんが晩年を過ごした酬恩庵(しゅうおんあん)一休寺があり、町を挙げて一休さんを応援しているのでした。これは帰りがけにぜひ寄らねば!

宇治茶の中心的産地・宇治田原町

京都京阪バスでは「下町」や「郷之口」というバス停が山口城跡最寄りの停留所。今回は「下町」で下車しました。

途中、「山城大橋」というバス停を通りました。

京田辺市と城陽市の間の木津川に架かる橋です。橋が架かる前はこの辺りに「草内の渡し」があり、堺見物をしていた家康が本能寺の変を知った後、本拠地岡崎に帰るためにここを渡し船で渡ったと考えられています。

バスは城陽市を走り抜け、宇治田原町へ。バス停「下町」で下車すると、宇治茶の生産地らしい光景が!

宇治田原町は、宇治茶の中心的産地なのですね。

茶畑もありました!

ここから目指す山口城跡までは、徒歩で7分ほど。

この辺りの道は、当時からあったのかな? 家康たちも、この道やこのお寺の前を通ったかもしれません。

途中見かけた古い道標。

鷲峰山(じゅぶせん)金胎寺(こんたいじ)という宇治田原町と和束(わつか)町にまたがる山岳信仰の霊地(真言宗)への道標です。

神君伊賀越えの功労者  長谷川秀一・山口秀景・多羅尾光俊

やっと目指す山口城跡が見えてきました。

残念ながら、解説板はあるものの、城の痕跡は全くありません。

本能寺の変が起こった時、ここには信長の家臣で山城国の国人(こくじん=地方領主)であった山口秀康(秀景)が城を築いていました。

家康が本能寺の変を知った時、信長から堺の案内人としてつけられた長谷川秀一(ひでかず)は、

『麒麟がくる』ゆかりの地・安土6 長谷川秀一邸跡から摠見寺へ

2021年1月31日

土地勘の乏しい家康一行の案内を買って出て、河内から山城、近江を経て伊賀、伊勢へと抜ける行程を説明。

さらに山口城主の山口秀景にも書状を送り、事態を説明しました。すると山口秀景は家臣を派遣して、家康一行の「草内の渡し」での渡河を助け、山口城で家康一行を歓待しました。

家康一行はここで昼食を摂り、馬を乗り換えて近江国信楽(しがらき)を目指します。

長谷川秀一とは旧知の近江国信楽の代官・多羅尾(たらお)光俊(山口秀景の婿養子の実父)にも家康一行の援護を要請。

多羅尾で一泊した家康一行は、光俊の子供らや甲賀衆に守られ、無事に伊勢国白子(しろこ)の港まで到着しました。長谷川秀一は、家康一行の安全圏である尾張熱田まで、一行と同行しました。

家康が無事に岡崎にたどり着けたのも、責任感ある案内役(今の団体ツアー添乗員さんみたい!)の長谷川秀一が、人脈をフル稼働して山口秀康や多羅尾光俊に協力を求めたからだと思われます。

NHK大河ドラマ『どうする家康』では多分、服部半蔵や女大鼠など伊賀者が活躍するでしょうが、長谷川秀一や山口秀景、多羅尾光俊はちゃんと登場するかな? 彼らはどのように描かれるのでしょうか、楽しみです。

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