奈良街道と木幡・宇治
2023年9月、京都府宇治市を訪れる機会がありました。
平等院や宇治市源氏物語ミュージアムを訪れた後、
藤原氏の人々が多く眠るという宇治市の木幡(こわた)を訪れました。
木幡という場所は宇治市北部の地名ですが、古くは京都市伏見区深草(伏見稲荷の近く)あたりまでを含み、京都と奈良を結ぶ奈良街道沿いでした。奈良には藤原氏の氏神を祀る春日大社や東大寺・興福寺などの有名社寺があり、旅人や朝廷の使節などが行き交っていました。
そのような便利な場所の近くに、藤原氏の人々は葬られていたのです。
藤原道長が宇治に別荘を構えたのも(後に平等院となる)、ここが街道沿いで、京都から交通の便が良かったというのもあるのでしょう。
藤原北家の遺骨埋葬地・宇治陵
まずは、「総遙拝所」となっている宇治陵第1号へ。
京阪木幡駅から、徒歩で10分くらいでした。
宇治らしく、周辺には茶畑もあります。
藤原氏の墓域であることを示す「藤原氏塋域(えいいき=墓地)の石碑。
藤原北家出身で初の関白となった藤原基経が、一門の骨を同じ場所に埋めるべきとしたため、平安時代末期まで、藤原北家の墓所(埋骨地)となりました。当時の墓は、鳥辺野などで火葬された後、遺骨を埋骨地に運んで土に埋め、小さな盛り土をして塚としただけのものでした。
藤原道長は1007年、木幡に浄妙寺(木幡寺)を建立し、藤原北家の重要人物を祀る菩提寺としました。しかし室町時代、土一揆で浄妙寺が焦土となって廃絶してしまいます。木幡の墓所も、いつの間にか土に埋もれてしまいました。
宇治には地蔵山および御蔵山周辺に320もの陵墓群がありますが、現在では、「宇治陵」として第1~第37号墳までの番号が振られています(いずれも宮内庁が管理)。でも、誰がどこに葬られているのか、未だにわからないそうです。
宇治陵第1号には、藤原北家出身の后妃たちの墓。道長の2人の姉(超子、詮子)や娘たち(彰子、妍子、威子、嬉子、寛子)の名前もありました。
「総遙拝所」というだけあって、立派です。天皇陵と遜色なさそうな感じでした。
天皇家と関係ないと、墓所は残らない?!
ところがそれ以外の墓は、あっさりしたもの。
例えばすぐ近くの宇治陵第2号は
駐車場に隣接しているし
(一応陵墓の前に鍵付きの扉はありました)
そこから足を延ばした宇治陵第4号は、入り口を探すのも一苦労。
現在では多くの陵墓が、茶畑や住宅地と化していると聞いたのですが、
ここも住宅地の隙間の道を通って
何とか陵墓を見つけることができました。
これらの墓所は、天皇家ゆかりの人物の墓所とされて宮内庁管轄になっているからこそ、開発から免れたのかもしれません。
ちなみに、道長の墓については宇治陵32号に否定する意見もありますが、確証は得られていないです。「この世をば我が世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば」という和歌で有名な、藤原摂関政治を代表する藤原道長の墓が、どこにあるかわからないというのも、無常感があっていいなと思いました。
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