偶然見つけた「和泉式部終焉の地」
2024年2月10日(土)、初めてJR木次(きすき)線に乗った私たちは、雲南市の木次駅から、奥出雲町の出雲横田駅を目指します。
亀嵩(かめだけ)駅で下車し、駅舎にある有名手打ちそばの店・扇屋で、割子(わりご)そばなどを堪能したのですが
有名店だけあって、やはり店は混んできました。あまり店内に長居するのも申し訳なくて、暖かい薪ストーブが恋しかったのですが、思い切って店の外へ。
どこかいい散策場所はないかとグーグルマップを見ると、駅の近くに「和泉式部終焉の地」と書かれた場所がありました。
これにはびっくり! 駅を出ると、心の声を代弁してくれるかのような、親切な案内板の文字。
案内板の通りに歩いて行くと、踏切ではないところで線路を渡り(なかなか日本ではできない、非日常的な体験でした)
更に歩きます。要所要所に看板があるので、迷うことはありません。
やがて小高い場所に
和泉式部の墓所がありました。
近くには、びっしり書かれた解説が掲示されているのですが(薄くなっていて読みにくい個所もあり)
読む気力がありません。でも、書いた人(地元の研究者?)の熱意は伝わってきます。
恋多き女流歌人和泉式部 まるでドラマのようなその人生
和泉式部と言えば、百人一首にも歌を遺す優れた女流歌人で、しかも藤原道長の長女である一条天皇の中宮彰子に仕えた人物。紫式部の方が先に、彰子に仕えていたようなので、和泉式部は後輩です。
紫式部先輩は、『紫式部日記』のなかで彼女のことを優れた歌人と認めつつ、恋多き女性で素行は感心できないと批判しています。
というのも和泉式部は、冷泉天皇の第三皇子・為尊(ためたか)親王(花山天皇の異母弟、三条天皇の同母弟。母は藤原兼家の娘・超子で、藤原道長の甥になる)と大恋愛。お互い配偶者がいる身(和泉式部には娘もいた)での熱愛でしたが、和泉式部の父は身分違いの恋であるとして、彼女を勘当してしまいます。ちなみに為尊親王の妻は、花山上皇から譲られた元恋人というから、この時期恋愛ゴシップには事欠きませんね。
為尊親王の死後、和泉式部は同母弟の敦道(あつみち)親王と恋に堕ちます。親王は彼女を邸に迎えますが(愛人兼女房として)、それを知った妃は家出。彼女は親王との間に男子を産みましたが、やがて敦道親王も死去。喪に服している間、高貴な兄弟との恋愛を綴ったのが『和泉式部日記』だそうです(いつか読みたい)。多分当時の貴族社会は、和泉式部の恋愛遍歴の噂でもちきりだったことでしょう。
この後、中宮彰子に仕えた彼女は、武勇に秀でた道長の家臣・藤原保昌(やすまさ)と再婚。御所の紫宸殿(ししんでん)にある梅の枝を彼女に所望された保昌が、警護の武士に矢を射られながらも命がけで枝を手に入れ、彼女の愛も手に入れたというエピソードは、まるでかぐや姫の無理難題みたい。紫式部よりも数倍、ドラマチックな人生です。
晩年は、娘であり、優れた女流歌人でもあった(百人一首でも有名)小式部内侍(こしきぶのないし)に先立たれて出家し、京都市(中京区)の誠心院(せいしんいん)で亡くなったと思っていたのですが、日本各地に「誕生の地」や「墓所」があるらしい。
この亀嵩の墓(石塔)もその1つで、夫が赴任した九州へ赴く途中、病を得てこの地で亡くなったのだとか。病床で彼女が詠んだという、百人一首の情熱的な歌「あらざらむ この世の外の思ひ出に 今ひとたびの逢ふこともがな」が思い出されます。
石塔が建立されたのは、江戸時代後期の1816(文化13)年。
その傍らには、里人が憐れんで建てたという、小式部内侍の碑もありました。これかな?
余談ですが、和泉式部の夫・藤原保昌が九州に赴任したのは、『ウィキペディア』によると和泉式部と再婚する前年の1012年まで。彼女と結婚する1013年頃からは、丹後、大和、摂津の長官になっています。この墓は、亀嵩の人たちから彼女が慕われていた、ある種の記念碑といえるかもしれません。
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