そもそも商館って何だろう?
2024年2月24日(土)、佐世保で1泊した私たちは、翌日平戸桟橋へとバス移動。
バスターミナル(平戸観光交通ターミナル)の中にあったこの銅像に心惹かれ、
平戸では最初に、
平戸オランダ商館へ行くことにしました。
目指す建物は、この白亜の美しい建物!
でもこの建物は、正確には「1639年築造倉庫」と呼ばれていました。倉庫ってもっと殺風景なものだと思っていたので、「美しすぎる倉庫」にびっくり! でもそれでは、私たちが普通に「平戸オランダ商館」と口にしている「商館」ってどういう意味なんだろう? どの建物を指すのかな? と不思議に思って調べてみました。
平戸に商館を建設したのは、イギリスとオランダだけ
「商館」というのは、貿易港の外国人居留地内に設定された、宿泊場と倉庫を兼ねた商業施設でした。外国人商人は商館内(オランダ人ならオランダ商館)での共同生活を義務付けられ、あまり自由な外出や取引は許されません。
あれ? よく大河ドラマなどで宣教師ルイス=フロイスらが安土城で信長と話してたり、堺の町で南蛮人の商人が市場を物色しているシーンがありました。彼らは自由に外出&取引しているように思われますね。
実は、日本で「商館」を建設したのはイギリス人とオランダ人のみ。ポルトガル人やスペイン人(南蛮人)、そして中国人は倭寇の流れを汲む、自由な貿易商人。日本の港では船宿に宿泊しました。船宿の主人は外国人商人を保護し、貿易の仲介業なども行ったようです。そのため南蛮人や中国人には、行動や取引の自由がありました。
ではなぜ、イギリス人とオランダ人は商館を建設したのかというと、この両国は江戸幕府の将軍家康から、正式に貿易を許可された国。そして個人ではなく「東インド会社」という組織が、国益のためアジア貿易を行う国でした。その「東インド会社」の「日本支店」という位置づけで、両国は平戸に商館を建設したのです。
西暦年号が書かれていたため破壊された倉庫
平戸のオランダ商館は、1609(慶長14)年に江戸幕府から貿易を許可された東インド会社が、平戸城主松浦隆信の導きによって平戸に設置した、東アジアにおける貿易拠点。
最初は土蔵が付属した住宅1軒を借りていましたが、その後施設の拡大整備が行われ、特に1637年と1639年に建設された倉庫は規模が大きかったようです。
ところがこの頃島原の乱が起こり(1637~38年)、1640(寛永17)年、1639年建造の倉庫にキリスト生誕にちなむ西暦の年号が示されているとして、当時の禁教令の下、全ての建物の破壊が命じられました。翌年オランダ商館は、長崎の出島に移されます。
長崎港に造成された人工島・出島は、元々貿易に関係するポルトガル商人を隔離して管理(キリスト教を布教しないように)するために建造されましたが、1639年に幕府はポルトガルとの貿易を禁止し、出島のポルトガル商人も国外に追放されてしまいました。
オランダ商館の出島移転は、造成工事に出資したのに出島が無人となって困窮した長崎町人の訴え(貿易利潤や土地使用料が入らない)や、平戸藩が貿易利益を独占することへの警戒感などから、平戸ではなく長崎出島にオランダ商館が移されたようです。
オランダ商館の歴史は、まさに江戸時代前期の外交史と大きく関わっているのですね。
次回は、1989(平成元)年、日蘭修好380周年記念事業の一環として復元された1639年築造倉庫内部の展示品をご紹介します。お楽しみに。
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