タクシーで巡る生月島4  生月町博物館・島の館(前編) 圧巻!古式捕鯨の展示品

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古式捕鯨と潜伏キリシタンに関する博物館・島の館へ

2024年2月25日(日)、平戸島から生月島(いきつきしま)へ移動した私たちは、生月自動車観光タクシーの2時間コースで島を観光することに。

塩俵の断崖から島の北端部へ移動し、大碆鼻(おおばえはな)灯台を見学した後は、生月サンセットウェイを通っで島の南端部にある

タクシーで巡る生月島3  生月サンセットウェイを日中に走る

2024年4月2日

タクシーで巡る生月島2  断崖に立つ、白亜の大碆鼻灯台    

2024年4月1日

タクシーで巡る生月島1  平戸島からバスで生月島へ!  塩俵の断崖で柱状節理を堪能  

2024年3月31日

平戸町博物館・島の館へと向かいました。

順調にいけば、大体20分くらいで到着できました。

圧巻の古式捕鯨ジオラマ

生月島は平戸島よりとても小さな島なのですが、この博物館は、とても見どころが多かったのです。

古式捕鯨と潜伏キリシタン(「隠れキリシタン」)に関する展示が、二枚看板。

建物の前には、鯨のブロンズ像や

捕鯨に使われたと思われる船の部品などがありました。大人1人520円の観覧料を支払って館内に入ると

江戸時代、この辺りの海で捕鯨の対象になった(右から)セミクジラ、ナガスクジラ、コククジラの絵。巨大な鯨を捕える「捕鯨」は危険を伴いますが、肉や脂が大量に手に入るため、江戸時代には「一頭獲れると七浦(ななうら)潤う」といわれるほどの収益がありました。

かつて日本海一帯に多数生息してた鯨の群は、冬になると対馬海峡や玄海灘から、壱岐水道周辺を経て東シナ海方面へと南下し、夏になると逆コースをたどって東シナ海から日本海方面へと北上。生月島と平戸島ならびにその近隣諸島の周辺水域は、狭いながら鯨の回遊ルートであったため、絶好の捕鯨場となったのです。

江戸時代には「鯨組」による組織的な捕鯨が行われ、特に生月島の「益富組」は、日本最大規模の鯨組。「勇魚とり」と呼ばれた当時の捕鯨ジオラマは、音声が流れたり動いたりして大迫力。完成まで、足掛け2年を費やしたそうです。

鯨を網に追い込む瀬子船(せこぶね)。この幟は、セミクジラ発見を知らせています。曳き綱のついた鉄製の「萬銛(よろずもり)」という太い銛を鯨の背中に打ち込んだため、鯨は勢子船を引っ張ったまま、必死に泳いだり潜ったりして逃げようとします。

動きが鈍くなったところで、「羽指(はざし)」と呼ばれる男たちが、鯨に銛を打ち込みます。銛には綱が付いており、鯨に刺さると綱を引いて回収し(この時鯨の身体は切り刻まれる)、再び投げます。

鯨が死んでしまうと沈む可能性があるため、息絶える寸前に羽指が手形包丁を咥えて、命がけで冬の海に飛び込み、鯨によじ登って手形包丁で鼻を斬り、噴気孔の2つの穴に縄を通しています。彼が鯨に最後の留めを刺すと、すぐに鯨を囲む船の者全員が立ち上がり、息絶えた鯨に向かって手を合わせ、「南無阿弥陀仏」の念仏を三度繰り返し唱えるしきたりになっていたそうです。

2艘の持双船(もっそうぶね 左中央の2艘)の間に渡した持双柱(もっそうばしら)に、鯨を吊り下げて解体場まで運びます。

羽指が鯨の鼻を斬る包丁です。命がけで鯨と戦う彼らは、「勇者」として尊敬を受けました。

鯨に投げる銛や、冷たい海から出た時に着た防寒着(ドンザ)。冬の海での捕鯨の辛さや厳しさは、想像することもできません。

鯨の恵みを余さず利用

こちらは、「納屋場」と呼ばれた解体場(鯨組の基地)のジオラマ。

解体処理でも大勢の人が働き、鯨組で働く人々の宿舎や船の整備作業を行う場所などもありました。1つの鯨組では600人近くが働いていたので、壱岐から五島列島にかけて5つの鯨組を保有していた生月島の益富組は、約3,000人の巨大組織。日本最大の鯨組でした。

解体に使われた道具や

鯨を余すところなく使っていることを示す展示も。

鯨の巨大な骨格や

益富組の捕鯨が最盛期の頃に登場した、生月島出身の巨漢力士「生月鯨太左エ門[いきつきげいたざえもん]」の等身大の像(身長227cm、体重169kg)にも驚かされるなど、本当に充実した捕鯨文化の展示でした。

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