2枚あった迫力の陶板画
2026年1月15日(木)、この日は19:00から京都コンサートホールでコンサートがあるというのに、前夜に見たNHKの『歴史探偵 秀吉のライバル 明智光秀』に影響された夫の希望で、午後から天王山に登ることになった私たち。
歴史探偵の番組にも登場した旗立松展望台で、眼下に広がる山崎の合戦主戦場や高速道路、新幹線の線路などに感動した後は
再び山道へ。ここにはかなり大きな陶板画が設置されていました。「秀吉の道」シリーズです。
シリーズ全ての絵は、日本画家の岩井弘さんの手によるものですが、横幅が違います。さきほど青木葉谷展望広場で見た陶板画
(タイトルは「秀吉の中国大返し」)と比べると、その違いがわかるのではないでしょうか。
この立派な陶板画のタイトルは「頼みの諸将来たらず 明智光秀の誤算」というもの。写真青い丸で囲った、赤い甲冑を着ている人物が明智光秀です。細川藤孝や筒井順慶らも来なかったのは、本当に可哀そう。
驚いたのは、この陶板画の近くに、更にもう1枚陶板画があったこと。同じような屏風絵風ですが、こちらは動きがあるし(まさに合戦図)、川の様子もよく見ると違っていました。
タイトルは「天下分け目の天王山」ですが、ちゃんとサブタイトルには「勝負は川沿いで決まった」と書かれています。主戦場は、淀川沿いでした。
この図の一番右側、陣幕の中にいるのが秀吉でしょう。その斜め上を駆けているのは、丹羽長秀の軍勢のようです。
秀長がどこにいるかは、よくわかりませんでした。最前線で天王山の麓にいたから、図の右下のはずなのですが。
十七烈士の墓
このまま山頂まで一気に戦国ムードで行くのかと思ったら、そうは問屋が卸さないというのが、天王山の面白いところ。
山道をさらに登っていくと、「十七烈士の墓」という場所に来ました。
ここは江戸時代末の1864年に勃発した「禁門(蛤御門)の変」で長州藩側に与し、戦いに敗れてこの地で自刃した久留米藩の神官(尊王攘夷活動家)・真木和泉守保臣(やすおみ)ら17名の墓だったのです。
上京軍の責任者だった彼らは天王山に立てこもり、郡山藩兵や新選組の追撃を受けて爆死自害(切腹)。遺骸は当初、宝積寺三重塔の前に葬られましたが、幕府により墓は暴かれました。しかし維新後に新政府が改葬し、切腹の地とされるこの場所に立派な墓が作られたのだとか。今でも子孫の方々や地元有志により、慰霊祭が行われているようです。
戦国の戦いよりも、よりリアルな戦いの場も、この天王山にはあったのでした。








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