大河ドラマで学び直せる日本史 戊辰戦争 ドラマへの疑問あれこれ(『西郷どん』第38話)

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『西郷どん』第38話「傷だらけの維新」は、弟の吉二郎の戦死が大きなテーマでした。

しかし前回同様???という場面が続出。

大河ドラマで学び直せる日本史 江戸城無血開城 ドラマへの疑問あれこれ(『西郷どん』第37話)

2018年10月8日

歴史にはいろいろな解釈がありますが、多分事実はこんな感じだったのでは?

上野の彰義隊と西郷隆盛

江戸城無血開城後、旧幕臣らが組織した彰義隊は新政府軍に敵対し続け、勝や西郷らの懐柔策にも応じません。

また新政府も、関東騒乱の原因の一つとして彰義隊を討伐する方針を決定。勝や西郷らのやり方は生ぬるいと思われ、京都から西郷に代わる軍の統率者として、長州藩の大村益次郎が赴任しました。

5月1日、江戸市中取り締まりの任を解かれた彰義隊は、上野近辺で新政府軍と衝突し、上野戦争が勃発。

大村益次郎が総攻撃を指揮し、西郷は最も激戦区となった黒門口で、大村配下の一隊長として薩摩軍を指揮します。

黒門口が上野での激戦地で、後に西郷隆盛の銅像が建てられた場所も、薩摩軍と西郷が激突した黒門口が選ばれています(上野の花見ができて感謝!のためじゃない)。

『西郷どん』ゆかりの地を訪ねて 鹿児島市内の西郷隆盛銅像と、K10カフェ訪問記

2018年12月23日

大村の作戦により、彰義隊は完全に鎮圧されました。上野公園の西郷の銅像のすぐそばに、彰義隊の墓があります。

弟の死に目に会えなかった西郷隆盛

彰義隊壊滅後も、「朝敵」会津藩や庄内藩、その両藩の赦免を要求して結成された奥羽越列藩同盟と新政府軍との戦いは続きます。

一方西郷は、体調を崩して帰郷。

新政府内部で、大村益次郎らとうまくいかなくて、ストレスがたまっていたのかも知れません。

しかしまもなく西郷は、戦況が思わしくない薩摩藩北陸出征軍の総差引(司令官)を命じられます。

西郷の指揮下であれば、戦況は好転できると思われたのでしょう。

この頃の新政府軍は諸藩の寄せ集めで、戦況次第では裏切る可能性もあり、西郷でも信頼できたのは薩長、特に薩摩軍だけでした。

薩摩軍を率いた西郷は8月10日に越後の柏崎に到着しますが、その一週間前の2日、初陣の次弟・吉二郎が新潟で負傷し柏崎の病院に運ばれていました。

14日に吉二郎は死去。享年36歳の若さでした。

鹿児島の西郷家を守り続ける吉二郎を、西郷は心から信頼し、5歳年下の弟を「私の兄です」と語っていましたが、司令官の仕事に追われ、弟を見舞いに行けませんでした。

目と鼻の先にいる彼の死に立ち会えなかった西郷は、訃報を聞いて声をあげて泣きました。そして髷を切り、頭を丸めたということです。

庄内藩への寛大処分

7月29日に新政府軍は新潟・長岡を占領。奥羽越列藩同盟は洋式武器の供給源を失ってしまいます。

9月22日に会津藩、26日に庄内藩も降伏しました。

新潟から山形へ進軍していた西郷は、降伏翌日の庄内藩に到着します。

庄内藩は前年末に江戸薩摩藩邸を焼き討ちしており、会津藩と同様の過酷な処分が下るだろうと覚悟していましたが、西郷は庄内方面軍司令官の薩摩藩士・黒田清隆に命じて、庄内藩に寛大な処分をさせました。

庄内藩の富商として有名な酒田の本間家の財力を知った西郷が、寛大な処分をしたとする説もあります。

この処置に感動した藩主・酒井忠篤や藩士・菅実秀たちは、後に「砲術修行」という名目で鹿児島を訪れて隆盛の教えを受け、彼の言葉を『南洲翁遺訓』としてまとめました。

鹿児島で西郷が過ごした武(たけ)村の屋敷跡には、西郷と菅実秀が語らっている像があります。

『西郷どん』ゆかりの地を訪ねて 鹿児島市内に残る西郷隆盛の史跡 

2018年12月16日

西郷隆盛の言葉を今に伝えてくれたのは、薩摩の人ではなく、敵であった庄内藩士だったのです。

この寛大な処分は、西郷のイメージアップにもなるいい話だと思うし、長州藩に占領された会津藩との比較もできて、絶対丁寧に描くと思っていたのに、どうしてドラマではカットしたのかな?

吉二郎の話といい、史実を改変している意図がよくわかりません。

そういえば、ナレーションの西田敏行さんは福島県民で、以前『八重の桜』で会津藩の家老・西郷頼母(たのも)を演じておられたはず。

戦いの足手まといになるまいと、会津藩では多くの婦女子が自害しましたが、西郷頼母一家も壮絶な最期を遂げたのでした。

西田さんは『西郷どん』が描く戊辰戦争を、どう感じておられるのかな。

小松帯刀はどうなった?

庄内藩降伏後、西郷は鹿児島に戻り、日当山温泉で療養しています。

吉二郎の戦死で、心身共に傷ついたのは確かかも。

翌1869(明治2)年2月、藩主・島津忠義が自ら日当山温泉を訪れ、西郷の藩政への参加を求めたため、翌日藩主と共に鹿児島に戻って薩摩藩参政に就任。

東京新政府への出仕は、辞退しています。

その理由の1つと思われるのが、薩摩藩家老として期待されていた小松帯刀の病気。下は鹿児島市内にある小松帯刀像(『篤姫』放映で知名度が上がり、建立されました)。

彼に替わって、藩主を補佐していたのです。

この辺りの事情も、ドラマでは描かれていませんね。

結局うやむやのうちに、小松帯刀さんはお亡くなりになってしまうのでしょうか。

これでは東北諸藩だけでなく、薩摩藩関係者に対してもあまり良くない展開ではないかなと思います。

西郷(隆盛)一家の事情を描くのもいいかもしれませんが、あまりにも抜け落ちている史実が多いなと危惧しているのは、私くらいでしょうか。

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