秋の近江路を歩く9 俵藤太伝説で有名な瀬田の唐橋 承久の乱の激戦地にもなっていた!

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2022年11月17日(木)、今日は大津散策の2日目です。

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通学ラッシュの京阪石山坂本線

今日の最初の目的地は、近江国一宮の建部(たけべ)大社です。

まず京阪石山坂本線のびわ湖浜大津駅から、唐橋前まで電車で移動しました。ちょうど朝の通勤通学ラッシュの時間帯で、特に目につくのが制服姿の高校生。

駅で停車するたびに、最寄り駅の高校に通う生徒たちが降りていきます。唐橋前でも、降りる生徒たちがたくさんいました。

そして駅前の踏切で交通整理する、生徒指導部の先生?らしき男性の姿も。後で調べてみると、滋賀県立瀬田工業高等学校の生徒たちがこの駅を利用しているのでした。

生徒たちは交通マナーを守って通学していました。朝から交通整理をしてくれていた先生にも感謝です。

瀬田の唐橋とは

建部大社へ行く途中、とても印象的な橋を渡りました。

これが瀬田の唐橋です。天智天皇が近江大津宮に遷都したころに建造されたともいわれる橋。

擬宝珠(ぎぼし)や欄干などが独特の色(唐茶=からちゃ色)でした。

東海道・東山道(中山道)方面から京都へ出るためには、必ず渡らなければならない橋です。

最初は丸木舟を並べて藤のつるで絡ませていたので「からみ橋」と呼ばれ、それが「から橋」となり、何度も架け替えられる中で中国や朝鮮半島の様式が採用され、「唐橋」となったそうです。

江戸時代に東から京都を目指す場合、草津から船で大津に行くのが近道ですが、比叡おろしの強風で船が遅れることも多く、遠回りでも瀬田の唐橋を渡る方が確実として、「急がば回れ」という諺が生まれたのだとか。

端から見た瀬田川の風景。

「近江八景」の1つ、「瀬田の夕照(勢田夕照)」として知られ、今でも夕日の名所となっているようですが、残念ながら朝に来たので夕日を見ることはできませんでした。

今も残る俵の藤太伝説

瀬田の唐橋の西岸には、後に平将門を討つ平安時代の武士・藤原秀郷(ひでさと)別名俵藤太(たわらのとうた)に関する伝説がありました。

瀬田の唐橋の上に横たわる恐ろしい大蛇を平気でまたいで通り過ぎた藤原秀郷。大蛇の正体は瀬田川の龍神で、一族が三上山(みかみやま 別名近江富士)に住む大ムカデに苦しめられているので退治してほしいと頼みます。

秀郷は見事に大ムカデを退治し、米の尽きることのない俵(これが「俵藤太」の由来。 ちなみに「藤原氏の長男」なので藤太)や使っても尽きることのない巻絹などの宝物を贈られました。

また龍宮にも招待され、赤銅の釣鐘を贈られた秀郷は、これを園城寺(三井寺)に寄進。のちに三井寺に攻め寄せた弁慶がこれを略奪し、比叡山の谷から投げ落としてしまいました。この鐘こそ「弁慶の引摺り鐘」なのだとか。昨日三井寺で見たばかりの鐘がここに登場していたのにはびっくり!

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2022年12月8日

勢多橋龍宮秀郷社は、龍神と秀郷を祀り

隣接する雲住寺も秀郷を祀っているそうですが、時間の関係で中までは入りませんでした。

唐橋を制する者は天下を制す

この橋は交通の要衝にあるため、壬申の乱、源平合戦、承久の乱、南北朝の内乱など、多くの戦乱の舞台になってきました。

特に壬申の乱では、大友皇子軍と大海人皇子軍の最後の決戦が行われ、防戦する大友皇子軍は橋板を外して待ち受けたけれど、大海人皇子軍に突破されて敗北したとの記述があります。

源平合戦では、源範頼が攻撃し、木曽義仲の乳母子・今井兼平(巴御前の兄弟?)を破っています。

そして承久の乱では、北条義時の弟(異母弟?)・時房が瀬田の唐橋を攻撃し、朝廷軍や比叡山の僧兵たちがこれを迎え撃ちました。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも登場するかな? どんな描かれ方をするのか楽しみですね!

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