2022年5月、徳川家康ゆかりの地・名古屋市を訪れる機会がありました。
大須商店街の中に移築された織田家の菩提寺・万松寺(ばんしょうじ)や、徳川美術館と隣接する徳川園を訪れた私たちは
次に大高城跡を訪れることにしました。
幻の大高城
大高城と言えば、若き19歳の徳川家康が、今川義元から命じられて敵陣の中にある大高城に見事兵糧を運び込むのに成功した場所として知られています。
最寄り駅は、JR大高駅。
そこから徒歩で15分くらいです。
要所要所には道標も出ているのですが
城跡は、石碑や案内板などがあるものの
当時をしのばせるものは、ありませんでした。
山の上にある「城山八幡宮」。
明治に建てられたという「城址碑」が立派です。
大高城の本丸跡は、緑林公園になっているとあったので、多分このあたりかな?
二の丸跡からは、織田方の砦だった「丸根砦」と「鷲津砦」が遠望できるということですが、この方向で合っているのかな? もう少し詳しく案内してくれてもいいのになと思いました。
『どうする家康』で活躍した鵜殿一族
NHK大河ドラマ『どうする家康』では、第1話で大高城への兵糧入れの話が描かれていました。
この時大高城を守っていたのは、今川方の武将・鵜殿長輝(うどのながてる)。
彼の母は今川義元の妹で、今川義元の甥にあたり、今川家の親戚衆として重用されていました。
家康が兵糧を入れるまで、鵜殿長輝は山野の草木の実を採取するなどして飢えをしのぎ、城兵を鼓舞していたそうです。
家康と大高城の守備を後退した鵜殿長輝ですが、桶狭間で今川義元が討たれたと知ると、本拠地の三河上ノ郷(かみのごう)城(現愛知県蒲郡市)に戻り、今川家から独立した家康と戦うことになりました。
長輝は上ノ郷城をよく守ったのですが、家康は甲賀衆(甲賀流忍者)に火計を用いさせたため、城内は混乱し長輝は討たれてしまいます。甲賀衆は、長輝の2人の子供も生け捕りにし(『どうする家康』では服部半蔵配下の伊賀衆が生け捕りにしたと思うのですが)、後に彼ら2人と、家康の妻(瀬名)と2人の子(竹千代と亀姫)の人質交換が行われています。
鵜殿長輝の妹は、徳川家康と戦って壮絶な最期を遂げたお田鶴(たづ)の方。大河ドラマでは瀬名と仲が良かったですが、実際2人の母親が義理の姉妹という、親戚関係でもありました。
徳川家康最初の公認側室・西郡局(にしのこおりのつぼね)=ドラマでは「できる秘書」お葉(よう)も、鵜殿一族の出身とされていますが、彼女は長輝の姉妹や娘ではなく、鵜殿の分家(蒲郡市の柏原城主)に仕えた家臣の娘ではないかとされています。
こう見てくると、鵜殿長輝とその一族は、家康と関係が深いことがわかりますね。
ちなみに鵜殿長輝が討ち死にした後の上ノ郷城は、家康の義理の父(お大の方の再婚相手)久松俊勝が城主となりました。
ちなみに、上ノ郷城の場所は上の地図をご覧ください。岡崎よりもかなり東にある上ノ郷城から、尾張の大高城の守備を命じられた鵜殿長輝もかなり苦労したのだなと、改めて感じました。家康と同じくらい苦労したのかもしれません。
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