赤神海岸から輪島市黒島地区へ
2021年6月、初めて能登半島を観光する機会がありました。
車を持っていないし運転もできない私たちは、今回タクシーを使って、能登半島の有名観光地を巡ります。
ヤセの断崖をさらに北上すると、磯の岩が少し赤っぽいような。
トンネルの岩も赤い!
この辺りの地名は、その名も「赤神」。鉄分を含んだ土や岩が多く、酸化してこの色になるんですね。
この辺りはもう輪島市西部(門前町)。そしてそこから5分ほど走ると、江戸時代の大半が天領(江戸幕府の支配地)だった黒島地区に到着。今回の旅行で夫が行きたかった場所の1つです。
江戸時代の町並みを残す黒島地区
この辺りは江戸時代、日本海海運で活躍した北前船の船主や船頭が住んでいた町。
町並みが、モノトーンでとても落ち着いた雰囲気です。
モノトーンの理由は、まず屋根が黒いこと。能登瓦という独特の瓦です。寒さと冬の日本海の風雨、そして塩害に強いというので、この地域にうってつけですね。
壁もほかの地域ではあまり見られない外観。「下見板張り」という手法で、上方の板の下端を下方の板の上端に重ね合わせて張る方法。板を平坦に張るよりも雨水の浸透を防ぎやすくなっているそうです。
実はこの地区も、2007年の能登半島地震で大きな被害を受けました。しかし地元の方々が懸命に復旧作業を行い、2009年には重要伝統的建造物群保存地区に指定されました。
旧角海家住宅へ 立派な座敷の数々
私たちは黒島地区で廻船問屋を営んでいた、角海家(かどみけ)の住宅だった建物を見学しました。
とても大きな屋敷です! 白壁の下にあるのは、やはり「下見板張り」の板壁。
入り口から入ると
まず最初に目につくのが、「店の間(みせのま)」。角海家は北國銀行黒島支店だったことがあり、ここが銀行の窓口でした。
とても明るい座敷。
中から外の様子は良く見えますが、外からはあまり見えないようです。
仏壇も
神棚も立派です。貼られている紙は、能登で見られる「蓬莱」という飾り。毎年年末に取り換えて、新年を迎えるそうです。
中庭は、建物でコの字型で囲まれています。
この辺りは、家族の部屋かな。
茶の間や、海の様子がよく見える望楼の間もあります。
ここから戻ってくる北前船を見つけ、いち早くお迎えしたのだとか。当時の北前船主の利益は、1艘の船でおよそ1千両! 立派な屋敷が建つわけです。でも船が難破すれば、すべての損害を船主が負います。ハイリスクハイリターンな生業でした。
調度品や台所、そして蔵
立派なのは座敷だけでなく、
そこに飾られている調度品や
食器の数々も当然ながら素晴らしい。
家族だけでなく、多くの使用人が住み込みで働いていたので
台所も大きいし
食料や調味料を保存する蔵もありました。上は塩物蔵。
こちらは小豆(あずき)蔵。
もちろん米蔵も。
中にはこんなものが展示されていました。
「家財蔵(かざいぐら)」というのもありました。冠婚葬祭など様々な行事を行うために、大量の御膳など食器類、屏風、調度品類が必要になるのですね。この蔵は3階建てでした。
メキシコまで漂流した黒島の水夫たち
館内には、江戸時代の北前船や廻船問屋についての紹介パネルもありました。
その中で印象的だったのが、メキシコまで漂流した黒島の水夫たちがいたということ。1841(天保12)年に犬吠埼沖で嵐に遭い、船は守ったものの食料が尽き、積荷で残った砂糖に酒を混ぜてなめたり、魚を釣ったりして4か月も漂流した後、13人の乗員全員が、通りかかったスペインの密貿易船に救助され、メキシコに上陸したそうです。
メキシコ上陸後、13人は離れ離れになったようですが、そのうちの5人が苦難の末、ハワイ、マカオ、マニラ等を経由して日本に帰国できました。彼らの話は初めて知りましたが、大黒屋光太夫(井上靖さんの『おろしや国酔夢譚』の主人公で有名)や
ジョン万次郎こと中浜万次郎にも負けない体験をしたのでしょう。彼らのその後が知りたいです。
コメントを残す