白河法皇を悩ませた京都の鴨川 実は暴れ川だった!

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近畿地方は昨日(7月5日)から記録的な大雨に見舞われ、各地で警報が発令されています。

特にテレビのニュースで毎回取り上げられるのが、水位が上昇して危険な京都の鴨川や桂川(渡月橋付近)の状況。

実はこの両河川は、古代より氾濫が多く、治水が繰り返されてきました。

今回はまず、鴨川の水害と戦う人々の歴史をご紹介します。

白河法皇の天下三大不如意の筆頭!

鴨川は、大都市を流れる河川としては勾配が急なため、「暴れ川」として知られています。

東寺の五重塔(高さ約 57m)の頂上と、その約8km 上流に位置する北山通が、ほぼ同じ標高なのにびっくり。

平安京造営時に、北山の木が伐採されたことや、市街地の東への拡大にともない河原が市街地化したことなども、水害が増加する原因となりました。

古代から鴨川上流には土着の賀茂氏が、下流には山城国に配置された渡来系の秦(はた)氏が居住して、開発や治水を行っていました。

平安京造営の頃から築堤工事も行われていたと言われており、842年には治水を担当する防鴨河使(ぼうかし)という官職が設けられました。

871年には、堤防を害することのないよう、その近辺での耕作が禁止されています。

このような度重なる措置にもかかわらず、治水はうまくいきません。

院政を開始したことで知られる白河法皇は、自分の思い通りにならないもの(天下三大不如意)の筆頭に「鴨川の水」を挙げました(後の2つは「双六の賽」と「山法師」=比叡山延暦寺の僧兵)。

当時の最高権力者で、怖いものなし(天皇経験者は強い!)のわがまま白河法皇をさんざん悩ませたのが、鴨川の水位だったのです。

雨やみ地蔵

以前、祇園の近くで「目やみ地蔵」と書かれた石碑に誘われ、目の病気にご利益があるお地蔵さまだと思って参拝したことがありました。

でも由緒書を読むと、元々は「雨やみ地蔵」。

鎌倉時代の1228年、続く大雨から鴨川が氾濫した際、当時の防鴨河使であった勢多判官為兼(せたのほうがんためかね)は、地蔵菩薩のお告げにより洪水を防ぐことができたそうです。

お告げに深く感謝した為兼は、この地に「雨やみ地蔵」と名付けたお地蔵様を安置したといいます。

一説には、八坂神社などに来た参拝者が雨に降られたときに、ここで雨宿りをしたことから「雨やみ地蔵」と呼ばれるようになったのではないかともいわれています。

寛文新堤と新しい町

豊臣秀吉は、京都を囲む「御土居(おどい)」と呼ばれる土塁を作りました。

御土居の東部は鴨川に沿っていて、堤防としての役割も兼ねていました。

しかし本格的な堤防が鴨川に登場するのは、江戸時代の前期(1699年)に、今出川通~五条通までの区間に築かれた寛文新堤からです。

当時の鴨川の川幅は、現在の二倍ほど。

御土居では、京都の東端は寺町で、広大な河原が広がっていました。

その広大な河原を寛文新堤は狭め、新しい市街地を作りました。

鴨川の右岸(西側)には河原町や先斗町(ぽんとちょう)、左岸には祇園の花街が誕生し、鴨川は現在の川幅になりました。

昭和の治水事業

1935(昭和10)年の大水害では、死者12名を出し、鴨川にかかる三条大橋など30を超える橋梁が流されるなど、未曽有の大災害となりました。

その翌年から行われた大改修工事では、砂防施設による土砂流出の抑制、河道の掘削や拡幅が行われました。

この工事では、古都の景観に配慮し、自然石を使用し、コンクリートの露出を避けるなどの工夫がなされています。

1987(昭和62)年には、京阪電鉄と琵琶湖疎水の地下化も実現。

平成の改修工事では、河道の拡幅とともに「花の回廊」設置など、さらに景観に配慮した河川整備が行われました。

今回の気づき

今は穏やかな姿を見せることが多い鴨川ですが、昭和の初めまでは、本当に暴れ川だったことがよくわかりました。

あの東海道の終点・三条大橋まで流されたとは、想像もできません。

人々を悩ませてきた鴨川ですが、よく考えると、今の京都の東側の繁華街は、鴨川の河原だった場所から誕生したことになります。

ニュースで増水する鴨川は、昔はごく当たり前の光景だったのでしょうか。

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