復元されたマンダレー旧王宮 東南アジアと中国・2つの文化の融合を見た!

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2019年12月29日(日)は、ミャンマー滞在3日目です。

バガンから空路マンダレーへ移動し、まずは旧王宮へ出かけました。

マンダレー旧王宮は京都御所の8倍の広さ! 徒歩では入り口に辿り着くのも一苦労

2020年1月25日

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2020年1月24日

王宮の建物は再建されたもの

マンダレーは、ミンドン王がここに遷都を決定し、1857年から4年の歳月をかけて王宮を完成させました。

日本だと、幕末で井伊直弼たちが活躍していた時期ですね。

しかし1885年(日本で内閣制度が成立した年)、この地を占領したイギリスによって国王はインドへと追放され、第二次世界大戦で王宮は焼失してしまいました(城壁は当時のままです)。

この立派な門も、1990年代に再建されたもの。

ミャンマーらしい建物です。全く同じではないけれど、1970年大阪万博のビルマ館も、こんな高い塔だったなと、懐かしく思い出されました。

大砲もありますね。どこの国にも、国王の宮殿前にはあるのかな。

バリ島風もあれば、中国風もある王宮の建物

門を入ると、たくさんの建物が迎えてくれました。

驚いたのが、門を入ってすぐの建物。

回廊のみで、壁がありません。とても風通しがよさそうで、涼しげです。

こういう建物、以前訪れたバリ島の王宮で見たような気がしました。

ミャンマーの王宮は、インドネシアのバリ島とも文化的につながっているのかな?

ところが、こちらの立派な建物を見てびっくり! これが王の謁見の間がある、正殿のようです。

何となく、紫禁城に似ていないかな?

それに、建物に囲まれた、ちょっと広い中庭があります。琉球王国の(昨年焼失したけど)首里城の中庭を思い出しました。

首里城有料見学区域 無料ガイドツアーに参加して学ぶ琉球王国の歴史

2018年12月22日

監視塔の上で、日本とミャンマーの友好親善に一役?!

広い王宮の全貌を見るために、敷地の一角にあるらせん状の監視塔に登りました。

踊り場という休憩場所がなく、ひたすら階段を登ります。

屋上へ出ると王宮が一望できました。広大さが実感できます。屋根が瓦ぶきではないのが、ちょっと残念かな?

後で知ったのですが、屋根に金の縁取りがついているのが、儀式や政務などを行う公的な建物。飾りがない建物(上の写真の左側)は、後宮のような国王のプライベート空間だそうです。

ところで監視塔の上で写真を撮っていた私たちは、突然ミャンマーの女性たちに取り囲まれ、一緒に写真を撮ろうと誘われました。

皆、とっかえひっかえ自分のスマホを同行者に渡して、私たちと記念撮影大会です。

皆さんとても優しくて、にこにこしていました。

ふと、1970年大阪万博が開催されたころ、同級生の活発なクラスメートたちが(私はやりませんでしたが)、万博会場で外国人にサインをもらい、その数を自慢していたことを思い出したのです。

あの頃はとても外国人が珍しくて、万博会場で出会ってもドキドキしていたものですが、もしかしたらこのミャンマーの女性たちも、外国人が珍しいのかなと思ったりしました。

ともあれ、私たちが「ミャンマーの人々っていい人だな」と思ったのと同様に、彼女たちが「日本の人々っていい人だな」と思ってほしいなと思いながら、一緒に写真を撮りました。

マンダレー旧王宮は、碁盤の目だった?!

旧王宮の宝物館にも入ってみました。

この王宮で暮らしたコンバウン朝王族の人々の写真や衣装、使用していた乗り物なども展示され、見ごたえがありました。

その中で一番気になったのが、この地図です。

城壁の中が、碁盤の目になっています。これはやはり、中国の影響なのでしょうか?

調べてみると、1766年(江戸時代中期)に清の軍隊と戦っており、停戦後に清と冊封関係を結んでいます。

つまり清の皇帝を君主とと仰ぐ属国となったのです。琉球王国と同じように。

マンダレーと琉球王国。遠く離れていても、中国の影響があると、やはり似ているのでした。

それにしても、昔も今も、中国の影響はすごいですね。

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