鎌倉で北条氏や鎌倉幕府の足跡+&を訪ねる旅20 4代将軍が建立した明王院

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やぐらに気を取られて同行者を見失う

2021年3月初旬、鎌倉を訪れました。今回の旅の目的は、『鎌倉殿の13人』に登場する北条氏や鎌倉幕府に関係する場所に行ってみること。

今日も鎌倉駅から徒歩移動し、最初の目的地、永福寺(ようふくじ)跡を訪問した後は。

鎌倉で北条氏や鎌倉幕府の足跡+&を訪ねる旅19 怨霊と英霊を鎮めた幻の大寺院・永福寺跡

2022年7月3日

源実朝が暗殺された後、京都から招かれた頼朝の遠縁で後に4代将軍に就任した藤原(九条)頼経が創建した明王院を目指しました。

道中、偶然にも護良親王のお墓を見つけたり、足利直義のお墓を探してウロウロしたり。

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2021年3月13日

そして住宅街の中でやぐら(中世の墳墓となっている洞穴)も発見! 案内板も何もなくて、全く観光名所でもなさそうなのに、どうみても中世っぽい。

まるで住宅街の駐車場から、中世へタイムスリップしたような光景に感動!

近くまで行けるのかな? 中には入れるのかな? どんな感じなのだろう? と思いながら、夢中で写真を撮影していて、ふと気がつくと、同行者と完全にはぐれてしまいました。やぐらは人気のない場所にある場合も多いので、安全のためにも、周囲には気をつけてくださいね!

スマホもないので同行者と連絡を取る手段もなく、ガイドブックの簡単な地図を参考に、地元の人に道を尋ね尋ねしてなんとか明王院にたどり着きました。

鎌倉市内に現存する唯一の「鎌倉殿発願の寺院」

明王院は、不動明王など密教の五大明王を本尊とする真言宗の寺院です。幕府の鬼門の方向にあたるため、鬼門除けの祈願寺として建てられたそうです。

別名は「五大堂」。立派な石の道標(上の写真の左)にも「五大堂明王院」と書かれています。

鎌倉市内で、五大明王を祀るのはこの寺院だけ。

鎌倉幕府の将軍(鎌倉殿)の発願によって建立された寺院は、歴史上数々ありますが、鎌倉市内に現存するのはこの寺院だけなのだとか。

永福寺など、華麗さを競ったであろう多くの寺院は火災や兵火で失われてしまいました。

鎌倉で北条氏や鎌倉幕府の足跡+&を訪ねる旅19 怨霊と英霊を鎮めた幻の大寺院・永福寺跡

2022年7月3日

この明王院では、後に蒙古襲来の際には「異国調伏」の修法が行われたそうで、今でも篤い信仰を集めています。

16歳年の差カップル! 藤原頼経の妻・竹御所の悲劇

1219年の源実朝暗殺後、2歳で鎌倉に迎えられた藤原頼経(頼朝の同母妹の曾孫)は、6年後に元服して翌年朝廷から将軍宣下を受け、4代将軍となりました。

1230年、13歳の彼は16歳年上の妻を迎えます。

彼女は「竹御所」といい、殺害された2代将軍の娘で(母は比企氏出身の若狭局)、女子であったため北条政子が保護。政子が死ぬとその後継者となり、御家人達の尊敬を集めて政子同様、彼らのまとめ役にもなったそうです。

政略結婚でしたが頼経と竹御所の夫婦仲は良く、1234年には竹御所が懐妊。

鎌倉は喜びに包まれますが、難産の末に母子(男児)とも亡くなってしまいました。これにより、源頼朝の直系子孫は完全に断絶してしまいます。

歌人の藤原定家は、その日記に「平家の遺児を全て葬った報いであろう」と書いたのだとか。

平清盛は頼朝や義経、阿野全成らの命を助け、清盛の死後も平家一門は(少々内紛はあったでしょうが)結束して壇ノ浦まで戦い抜いたけれど、源頼朝はこれと対照的。このような感想を持つ人がいてもおかしくありません。

この明王院は、竹御所の死の翌年に建立されました。彼女の一周忌の本尊仏も造立されたそうです。

なお、比企氏の母を持つ竹御所の墓所は、比企氏一族が眠る鎌倉の妙本寺にあります。

鎌倉で北条氏や鎌倉幕府の足跡+&を訪ねる旅12 比企一族滅亡の地・比企ヶ谷の妙本寺

2022年6月23日

若狭局ゆかりの蛇苦止堂(じゃくしどう)を見つけられなかったのは承知していたのですが、竹御所のお墓もあったのは後で知りました。今度訪れる機会があれば、絶対行ってみたいです!

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