平戸訪問記10  松浦史料博物館を見学(前編) 松浦氏の歴史を彩った展示品の数々

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松浦氏の館が博物館になっていた

2024年2月24日(土)、初めて平戸を訪れた私たちは三浦按針の墓参りを終えた後、

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2024年3月25日

この日最後の見学場所・松浦(まつら)史料博物館へと向かいました。

三浦按針の墓からは、かなり遠回りになりました。平戸桟橋前の「歴史の道」を通っていけばよかったかな。

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2024年3月22日

「歴史の道」を通る場合は、この石段を上ってくださいね。

松浦史料博物館の外観。この場所は元々、平戸藩主の松浦氏が館としていた場所で、

主な展示場は、最後の平戸藩主が明治に建てた応接用の建物。

1955年に、当時の松浦家当主から平戸市へ敷地や建物が寄贈されたため、それを改装して史料博物館としたそうです。展示場は広くて見ごたえがあり、特に歴史の好きな人にはお勧めです。それではさっそく、主な展示品をご紹介しましょう。

松浦家伝来の武具や調度類

まず最初に登場するのが、松浦家伝来の甲冑。

そして「狂獅子図(くるいししず)屏風」に描かれた獅子。今回、狩野探幽描くこの屏風は、展示されていたのかな?と後で写真をよくよく見返すと

この美しい駕籠の背後に立ててある屏風だったのでした。

もうすぐ雛祭りという時期だったので、雛人形も展示されていました。

ミニチュアの調度品が素敵!

こちらはお香を楽しむ道具。教養も必要な、雅な遊びです。

松浦家から嫁いだスメ姫の婚礼調度品もいくつかありました。彼女の死後、嫁いだ稲垣家から形見にと贈られたものです。嫁ぐ娘の幸せを願って作られた大名調度品は、いずれもとても美しいものでした。

平戸藩主・松浦氏とゆかりの人物

展示品の中には、肖像画もありました。これは第5代平戸藩主の松浦棟(まつら たかし)。

平戸城でも少し紹介されていましたが、父で4代藩主だった松浦重信(隠居後に曽祖父である初代藩主と同じ「鎮信」に改名)と共に徳川綱吉に重用されて、外様大名としては異例の寺社奉行に就任。焼失したままになっていた平戸城の再築城も、特別に許可されました。

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その松浦重信と交流のあったのが、儒学者・兵学者として名高い山鹿素行。

松浦重信は彼を平戸に招こうとしましたが、彼の死で叶わず、弟を平戸藩士としました。再建された平戸城は、山鹿流軍学に基づく縄張り(設計)でした。

こちらは、水戸藩主・徳川斉昭が描かせた「三勇像」。3人の藩主や前藩主を招いて描かせたものですが

右端が、前平戸藩主の松浦静山。

そして彼が、隠居後20年にわたって書き続けた随筆集『甲子夜話(かっしやわ)』。

彼の曾孫・明治天皇が着用した直垂(ひたたれ)もありました。平戸城の展示を見ていてよかった!

文書関係では、松浦氏一族に出された、後醍醐天皇の命令書もありました。足利氏を討てという内容です。

これは徳川家康が、初代平戸藩主・松浦鎮信(法印)に与えた朱印状。関ケ原の戦いで、石田三成率いる西軍側に加わらなかったことを賞したもの。嫡男の久信は西軍に参加しましたが、鎮信が一族や肥前の諸将を集めて会議を行い、東軍側に所属することを決めたため、久信は罪に問われなかったそうです。

平戸城を自ら焼いた(写真は平戸城の展示)と言われる鎮信。理由については、徳川幕府の嫌疑を逃れるためとも、久信の死を悲しんだためとも言われます。松浦氏や平戸城の歴史も、調べていくと奥が深いですね。

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