天守閣現存の国宝・高知城4 国宝高知城の本丸御殿と天守閣

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(2023年4月19日に公開する予定だった記事です。うまく投稿できていなかったので本日投稿しました)

国宝高知城 そのわけは

高知城は、1934(昭和9)年に国宝に指定されました。

その理由は、本丸御殿と天守閣が両方とも残っているからなのです。そう言われれば、今まで訪れた城は天守閣だけでした。本来天守閣は戦争の時に城主が指揮をしたり、物見をしたり、食料や武器などの貯蔵をしたりする場所で、城主がいつも住んでいた生活の場所ではないのです。普段暮らしていたのは、本丸御殿でした。

例えば、日本で初めて世界遺産に登録された姫路城でも、美しい大天守は現存していますが、御殿は火災に遭ったり明治時代に取り壊されたりして残っていません。

土佐藩主の生活の場所、そして政務も執っていた本丸御殿はどんな場所なのか、見ていきましょう。

本丸周囲の門

本丸には、敵を寄せ付けない門がいくつかあります。

詰門(つめもん)もその1つで、本丸と二ノ丸をつなぐ役目を果たす櫓門。

でも一般的な門(上は高知城大手門)とは違って、

門を入っても、すぐに外の景色は見えません。扉が閉まっているわけではなく、敵が門を容易に通り抜けられないよう、入口と出口が別の場所になっているのです。すごく工夫されています!

本丸の裏手(搦手)の防備を担ったのが黒鉄(くろがね)門。

柱、門扉などに多数の小鉄板を打ちつけ、すべて板張りで黒く塗られているので、この名がついたそうです。

藩主が暮らした本丸御殿

高知城を築いた初代土佐藩主・山内一豊夫妻が生活していた本丸御殿は焼失し、現存するのは江戸中期に再建された本丸御殿なのですが、それでもとても貴重な建物です。

時代劇で見るような、畳敷きの部屋が続いています。

歴史の授業で学習する、書院造の座敷です。

「御茶所」では茶が立てられ、座敷に運ばれていました。

風流な庭園もありますが、城の中なので、監視のための物見窓もあります。

矢狭間塀(やざまべい)には、鉄砲で攻撃するための丸い穴が開けられていました。

藩主の座・上段の間です。この襖の裏側は、藩主を護衛する武士たちが隠れていた「武者隠し」。

こちらは雪隠の間。トイレです。おまるで用を足していました。城内には多くのトイレがありましたが、この本丸御殿の雪隠は、藩主しか使えなかったそう。トイレに行きたくなったら、別棟に行くしかないのです。大変!

いざ天守閣へ!

天守閣には、江戸時代の高知城下の様子を復元した模型や

かつて存在した二ノ丸御殿や三ノ丸御殿も見ることができる1705(宝永2)年頃の様子を再現した模型、

城の構造や天守閣についての詳しい説明パネル、

そして山内一豊夫妻を中心とする山内家の紹介などがありました。

天守閣の頂上から見える景色も抜群!

上から見る櫓や門も、なかなかいいものですね。

どの方向に何があるかという写真付き案内板もあったので、

建物の名前がよくわかりました。

とても見どころが多かった高知城。御城印(200円)も頂いて大満足です。

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