井伊直虎は男性?女性? その1 井伊直虎の生涯(定説)

スポンサーリンク



桜の花を散らす突風と雨に早朝から見舞われた4月11日(火)。

日本中の関心が、フィギュアスケート浅田真央選手の引退発表と、ポテトチップス不足に集まっているような朝のニュースでしたが、私の関心は別の事件にありました。

井伊家の史料を収集する京都市東山区の井伊美術館が、

「直虎」の名が登場する新たな史料が発見され、井伊直虎男性説が強まった

と10日に発表したのです。

昨年から続いているこの話題について、もう一度最初から分かりやすくまとめてみようと思いました。

今回はまず、通説からおさらいです。

引き裂かれた許嫁

従来の通説では、井伊直虎とは遠江国の井伊谷(いいのや 現在の静岡県浜松市北区)を治めた地方領主・井伊直盛の一人娘のことです。

井伊家は駿河国の戦国大名・今川家が遠江国に侵略したとき今川家と戦って敗北し、今川家の支配下にありました。

直盛には男子がおらず、直盛は幼い一人娘と年の近い一族の亀之丞を婚約させ、井伊家を継がせる予定でした。

ところが亀之丞の父親とその弟が謀叛の疑いで駿府に呼び出され、今川家に誅殺されてしまいます。

この事件の首謀者は、井伊家家老の小野政直。彼は今川家の目付でもありました。

親今川派の小野政直は、反今川派の亀之丞の父と対立しており、亀之丞と直盛の一人娘の婚約にも反対していました。

この婚約により亀之丞が井伊家当主になると、亀之丞の父親の発言権も強まり、井伊家の中で反今川派勢力が主流となる可能性があるためです。

亀之丞の父親が誅殺されたのは、小野政直が駿府に出向いて今川義元に讒言(ざんげん 告げ口)したからだと言われています。

わずか9歳の亀之丞にも「謀反人の子」として、駿府の今川家から殺害命令が下ります。

井伊家の次期当主となる亀之丞は、家臣に連れられ命からがら井伊谷から脱出しました。

亀之丞の行方は極秘とされ、許嫁の一人娘にも知らされませんでした。

「次郎法師」の誕生

やがて月日が経ち、意に沿わぬ政略結婚を避けるためもあって、一人娘は井伊家の菩提寺・龍潭寺(りょうたんじ)で出家してしまいます。

許嫁の亀之丞に操を貫く形にはなりましたが、両親の嘆きは大きく、どうして一人娘の出家を止めてくれなかったのかと龍潭寺の南渓(なんけい)和尚(一人娘の大叔父になります)に抗議しました。

そこで南渓和尚は一計を案じ、一人娘に「次郎法師」という名前をつけることにしました。

「次郎」とは、代々井伊家の惣領(本家の当主)に伝わる名前でした。

そして「法師」というのは尼僧ではなく、男性僧侶としての名前です。

一人娘の願いを叶え出家は認めるが、還俗(げんぞく 俗世間に戻ること)が比較的容易な僧侶の名前を与え、普通の女性としての幸せを願う両親の気持ちも尊重したのです。

亀之丞の悲劇

一方亀之丞は南渓和尚のつてを頼り、険しい山々を越えて南信濃の伊那谷で匿われることとなります。
やがて亀之丞を狙う小野政直が亡くなり、伊那谷が武田信玄の侵略を受けると、直盛は20歳になっていた亀之丞を井伊谷に呼び戻しました。

約10年ぶりに再会した亀之丞と次郎法師ですが、なぜか結婚することはなく、亀之丞は別の女性と結婚して井伊直親と名乗ります。

やがて直盛が桶狭間の戦いで討ち死。

後を継いで井伊家当主となった井伊直親も、今川義元亡き後の今川家から離脱して徳川に内通したという謀叛の疑いをかけられ、掛川城下で謀殺されてしまいます。

井伊直親に謀叛の疑いありと今川氏真(うじざね)に訴えたのは、小野政直の子で井伊家の家老であった小野但馬守政次でした。

男性のいない井伊家を守る

井伊直親には2歳になる虎松という男児がいましたが、家督を継ぐにはまだ幼すぎ、隠居していた次郎法師の曾祖父・直平が再び井伊家を率いますがまもなく死亡(毒殺説あり)。

その後次郎法師の母方の叔父・新野左馬助(にいのさまのすけ)や一族で重臣の中野直由(なおよし)が虎松の後見を務めましたが、彼らも討ち死にし、とうとう井伊家に残されている男子は虎松だけになってしまいました。

この時虎松の後見人となり、存続の危機に陥った井伊家を当主として支え、井伊家再興の礎を築いたのが、次郎法師。

彼女は女性ながら「井伊直虎」と名乗って井伊谷を支配し(井伊家の伝記には、歴代当主の中に「井伊直虎」の名前はありません)、養母として虎松を養育。

井伊谷の支配を狙う今川家や、今川家の意を受けた家老の小野政次に抵抗します。

しかし結局井伊谷の城主の座を奪われ、虎松も命を狙われ井伊谷から脱出しました。

やがて成長した虎松は徳川家康に仕え、井伊家は再興されて井伊谷の支配権も回復しました。

元服した虎松は井伊直政と名乗り、徳川四天王の一人として活躍し、初代彦根藩主となりました。

おそらく大河ドラマも大筋このストーリーで進むと思われます。
次回はこの通説の出典や、これがどのように広まっていったのか考えてみたいと思います。


写真はいずれも 熊谷光夫・画 版画制作・光山房 です。

スポンサーリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です